清水平安堂
薬種卸販売
相生町5丁目86番地(1305)
明治3年、太田町五丁目に紀伊国屋薬舗を創業、上氣平安湯を販売した。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑
清水榮助 相生町5丁目86番地「君は慶應元年五月和歌山縣海草郡日方町に生る巌君を山本之順氏と云ひ其嫡男なり代々農及び商を以て業とす幼名を新太郎と呼びしが後榮助と改む是より嚢き明治十年學に志し將來大になすところあらんとして雄心禁ずる能はず遠く京都に遊び植村芳洲氏の塾に投ず之を久しうして小笠原東陽氏の門弟となる茲に於て孜々汲々日夕熱心砥礪一日倦怠することなし螢雪の功遂に顯はれ二十一年君平素の目的たる薬剤師の攻科に登第し剏めて本懐を伸べたり因て此智識を應用して社會の爲め一身の爲に盡瘁せんと欲し二十二年十一月横濱に出でて薬舖清水榮助氏方に勤務することとなり摯實黽勉なる行爲は早くも清水氏の認むるところとなりに選まれて其養嗣子となるや累代の襲名に従ひ名を榮助と改む清水家は代々薬舗を以て業とし土地の信用甚深厚にして家傳薬あり上氣平安湯と云ふ逆せ引き下げ產前後の婦人病四季の引風に尤も特効ありとして古来の調藥なりしのみならず効験も亦著しきものありしを以て其名甚だ高し君入って家督を継ぎし以來商業に對する獨特の技倆を発揮して更に隆々の勢ひをなし殆ど底止するところを知らず君稟性温良恭謙にして客に接すること極めて慇懃なり然も能く世故に通じ辭令に長ず君嗣襲の翌年を以て直に選まれて神奈川縣薬剤師會の理事となる幾何もなくして理事長の椅子を占むるに至る尚町内衛生組合の委員に推され相生會委員に擇まる以て人望と技倆とを知るに足るべし慈善心は君をして常に此方面に向って愛憐の温情を露はすを止むること能はざらしむ斯る優しき心掛のあるあり家庭曷んぞ靄然たらざるを得ん舅姑に事へて孝養到らざるなく店員婢僕にしては恩威並び行はるといふ」京浜実業家名鑑
上氣平安湯本舖(紀ノ國屋薬店)清水榮助「上氣平安湯を以て賣出せる紀の國屋藥店清水榮助君の先代榮一氏は、明治元年和歌山縣より出て、太田町五丁目に藥舖を開き、同時に風邪血の道一切の妙藥なる上氣平安湯を賣出せしが、奏効顯著の爲め聲名忽ち全國に喧傳して、明治卅年の頃には海外にまで輸出するに至れり、榮一氏は七十五の高齢を以て歿す、現主榮助氏は慶應元年和歌山に生れ、東京帝國大學藥學科を卒へ先代の養嗣となり、明治廿三年薬局を開設し、先代の遺業を繼承して、益々業務を擴張し商勢隆々として起れり、君は現に日本藥劑師會神奈川縣支部長、艸樂會幹事、馬車道商榮會副會長、相生會委員として、同業界の推重する所なり、」横濱成功名誉鑑
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