大澤高等傘商店 弁天通


大澤商店
高等洋傘店
弁天通4丁目74番地
居留外国人向けに西陣物の美術的な洋傘を製造販売していた。
明治の横浜手彩色写真絵葉書

「明治十五六年頃の当地洋傘界は太田町の伊勢勘、馬車道の酒井屋の二軒が其覇を称へていたのであるが、前者は商品を内地に売捌くのを主眼とし、後者は海外輸出を眼目としていたので、其間に開業した当店は居留地外人向の洋傘を製造販売したのであって、開店後若干も経たぬ中に好評を博し外国婦人令嬢等の店頭に踵を接するもの引きも切らざるの有様となった。それは前二者の後を趁はぬ着眼点が好かったのみではなく製造品が着実であったからで、奈何に其の標的が好くっても実質が是に適はねば最後の勝利を期することは至難である美術的な洋傘は所謂お体裁もので餘り実用に適するものでないが、当店のは高尚優美の上に実用に適して殊に鐵條の末端口止の如きは堅牢無比、常に内外に称賛を博しているので、麒麟に両翼を附けたやうなものであるから今日の雄飛を見るに至ったのである。材料は総べて西陣物で他店にては見ることの出来ない美術的の洋傘を今猶盛に発売しているが、内地でも高尚なる美術的洋傘を望む人は同店に直接注文するものが可成あるが、時には東京から宮家のご注文品もあって、上海香港等を経由して来る漫遊外人は横浜で洋傘を買うのを一つの目的にしていて上陸後直に当店を尋ねて来るとのことである。第五回内国勧業博覧会に出品して二等賞牌を得、鐵條五本星形、富士形二重張、網形等はいづれも明治卅九年に実用新案特許を得ているが、尚男持の取手の取はづしの出来る洋傘もある、不用の時は鞄の中へ入れることが出来て旅行用などには至極軽便である。当店は其の如く製造上新案工風に努めているが創業当時より一方には外字新聞に広告などをして機敏に販路を拡張しているが、卸売は一切しないから当店より製出する洋傘には大澤なる銘の無いものは一本も無く責任のあるもののみで、従来の信用を益々鞏固ならしめている。」実業之横浜

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