奉祝記念誌 |
關川歯科醫院
歯科
尾上町5丁目74番地 尾上町2丁目21番地(852)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
關川重吾 尾上町5丁目74番地「歯の容貌に大なる關係を有するは人の知れるところ然も歯痛を患ひざるもの殆んどなしと云ふ も敢て不可なきなり随って歯科術の必要ある啻に衛生上のみならず装飾に於ても至要なるものなり君夙に斯術を研鑽するの志あり始め外國語學校に入り語の知識を得次で大畑榮之助氏に就き醫術を攻究し精勵勤勉頗る得る所あり時に明治八年なり更に堂奥を究めんが爲め洋人エイチエムボール氏に師事し螢雪の功を積むこと數年遂に十四年齒科醫の開業試験に登第し當時日本橋區元大工町に業を開けりされど多年學窓にありし第二の故郷たる横濱を追慕するところより越えて十五年二月を以て再び横濱に赴き地を現處にトし開業す君賦性敦厚温籍寛容以て人に接し頗る輿望を負ふ職務に對しては熱心忠實にして然る清廉純潔切りに貨殖の事に心を傾けず唯職を以て神聖なりとして營々として勉むるのみ故に患者は君の施術を乞はんとし門前常に絡繹たり其今日ある素因ありと謂ぶべし君又公共心に富み特に日露交戦中に於ては諸種の團體事業を援助盡瘁し又放資するところから尠からず尚同業者間の信用深く現に神奈川縣歯科醫會理事の椅子を占む君は實に萬延元年五月五日を以て東京巢鳴に生る父は幕府の臣川尚義氏と云ふ君 は其の長子にして幼名を重五郎と呼びしが較々長じて今の名に改む曾て厳父は舊幕府にあって海軍の事を調査攻究して頗る精遍詳熟せるところありて令聲亦甚だ高かりしと云ふ試みに氏をして今日にあらしめば必ずや比肩すべきものなからん所謂此の父にして此の子あるものか今や斯界名手に乏しく且つ積弊の刷新せざるべからざるものあり吾人は斯業先覺者に望む所多からざるを得ず君請ふ 旃れを勉めよや至囑々々」京浜実業家名鑑
齒科醫 關川重吾「『鐵の橋の齒醫者』の名聲市內に高き關川重吾君は幕臣關川伴次郎氏の長男にて、萬延元年五月東京に生る、 父は創立時代の海軍々人にして、明治三年德川家軍艦行速丸を政府に献上す、 時の船長は實に伴次郎氏たり、後尙義と改名兵部省より海軍省に轉じ、海軍大尉たりしが、西南の役陸軍砲兵大尉として出征功あり、其の家庭に育ちたる君は七年頃外國語學校に在學し、八年故小幡英之助氏の初めて齒科醫學を以て東京に業を開くや、君は其の門に入りて斯術を學び、 後出濱して米人齒科醫學士エチエムホールキンス氏に就きて實地を研むる事年あり、米國領事の證明と共に齒科醫たる師の許可を得たり、十四年醫師開業試驗に登第、翌年二月現所に開業以來名聲高く現に神奈川縣齒科醫師會々長として盡力せらる、」横浜成功名誉鑑
神奈川県銀行会社実業家名鑑 |
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