菅川絹物直輸貿易商会 海岸通

菅川商会
絹物直輸貿易商
海岸通4丁目18番地→山下町210番地(1128)
明治33年設立。絹織物、刺繍レースなどを取扱った。建物はフランス人レスカスの設計で明治14年三菱の横浜社屋として竣工。
明治の横浜手彩色写真絵葉書

菅川清 海岸通4丁目18番地「金港の輸出貿易界中嶄然頭角を抜くものを菅川商會となす商會主菅川君は美濃の人文久二年九月を以て惠那郡中津川町に生る義造氏の長男なり幼にして國學の泰斗篤胤翁の門に入り和漢の學を修め東洋道徳の涵養を受く己にして君の師友は勸むるに東都の遊學を以てするものあり乃ち明治九年笈を負ふて東都に出で中村敬宇翁の同人社に入り 英學を修め且基督教の教化を受偶々商業學校長矢野次郎氏の門を叩き談論の際日本帝國の將來 は實業の発達に負ふ所少なからざるを悟るや遂に意を決して商業學校に入り他日實業家たるの素養を努む君其在學中同校設備の充分ならざるを慨し同志を集め商業大學の建議案を草して時の大蔵卿大隈重信大藏太輔伊藤博文二氏に謁して痛切に之を論じたることあり大に當路者を動かしたりと云ふ後ち商業學校卒業後外務省公信局及翻譯局御用係となり清佛開戦するに當りて香港に派遣せられ領事館に留って通信視察の任を帶ぶ戦止みて歸朝するや馬關商業學校長として赴任し居ること數年大に校務を擧ぐ後ち名古屋商業學校長に轉じ更に神戸商業學校長となる山陰山陽の子弟君が薫陶を受くる者多し尋で市俄古萬國博覽會開設の擧あるに當り任を辭して奮然米國に赴き巡遊數月の後メ ーソン商會に入りて日本商品の販路に關し仔細に研究する所あり歸朝後横濱山下町メーソン商會支店長となり専ら絹織物花茣蓙段通等の輸出を經營して對外貿易に貢献する所多し明治三十三年菅川商會を設立して絹織物の輸出を圖り傍ら刺繍レース其他加工品に及ぶ三十七年聖路易博覽會の開催 せらるるや選ばれて日本出品協會理事となり會務 を整理して功あり總裁フランス氏其功績を多とし 特に感謝状を贈れりと云ふ」京浜実業家名鑑

絹物直輸貿易商 菅川商會 菅川清「日本郵船會社の支店と相駢んで、海岸通四丁目に巍然たる高屋は、直輸出を以て貿易界の重を爲せる菅川商會なり、商會主菅川清君は美濃中津川町の人、文久三年の生、幼にして國學の泰斗平田篤胤翁の薫陶を受け、 次て東都に出で中村敬宇翁の同人社に遊び、偶々商業學校長矢野次郎氏の勸告に從ひ、遂に一橋商業黌に入夕て實業家たる要素を養ふ、其在學當時商業敎育の不備を慨し、同志と共に商業大學設立の建議を爲し、大に當路者を動かしたる如き、卓見既に時流を披きたり、業を卒へて或は外務省の御用掛となり、或は通信視察として香港に渡航し、次て馬關、名古屋、神戸等の商業學校長として幾多の俊才を養成せしが、市俄古萬國博覧會開設に當り、任を辭して米國に巡遊し、遂に紐育メーソン商會に入り本邦商品の販路を攻究し、歸来同商會横濱支店長として、大に其辣手を振ふ、八面玲瓏なる君の巨腕は蓋し之くとして可ならざるなき也、明治卅三年菅川商會を設立し、絹織物、刺繍レー ス其他の加工品並に花莚段通等の直輸出を開始し、多年の素養と實際の継験と相俟て、忽ち輸出界の覇を露すに至れり、明治冊七年聖路易博覧會の學あるや、日本出品協會の理事として渡米し、同博覧會の爲めに蓋せし功績偉大なりとして、同會総裁より特種の感謝状を受く、君商會を開きてより販路擴張商況視察其他の要件を帯びて、東奔西走席暖かなるに遑あらず、内地の往復は云ふ迄もなく、欧米へ渡航すること數次、今や營業の区域普く世界全局に渉り、海外に於ては紐育及び龍動に支店を設置し、濠洲加奈陀南米に代理店を嘱託して輸出の機關と為し、内地に在ては東海北越其他の原産地に出張所を増設して、製造を奨勵し生産の圓滑を圖る等、其經營の周密にして加臭く畫策の正確なる、蓋し豊富なる學識と卓犖なる才能とによるにあらずんば能はざる所、君や實に教育ある新進商人の模範として旌表に値する偉傑ならずや、」横浜成功名誉鑑


実業之横浜

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