石川自転車商会 尾上町

神奈川縣案内
石川商會
自転車直輸入商 羽二重直輸出商
尾上町6丁目89番地(90)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

石川商會 石川賢治「所謂ピアス自輾車は本舗の直輸入に係る者の外はセンチュリー寫眞器の輸入販賣及絹織物雑貨を輸出す文明的貿易の摸範たらん乎」京浜名家総覧職業

自転車直輸入 羽二重直輸入「敏速快捷自轉車界の逸品として競走塲裏未だ人後に落ちしことなく、殊に其二四二號無鎖空氣撥枠式コースターブレーク附總ニッケルブレーム外四種に對しては、第五回博覽會より授賞されたる『ビアス』號は、質に石川商會主石川賢治君の直輸入せし所に係る、君は山形の人安政六年に生れ、慶應義塾卒業後山下町メーソン商會に入り輸出部主任に昇進せしが、明治廿七年獨立して辨天通に羽二重輸出業を始め、次て自轉車流行の機運に乗じ『ビアス』外數種を輸入して次第に業務の發展を途げ、米図加奈陀及び東京大阪神戸へ支店を設け、輸出羽二重組合役員又は商業會議所議員等に推選せられ、海外に渡航すること數次、斯界に重きを為せしが、本夏宿痾の為め業を丸石商會に継承せり、同商倉は多年石川商會に在て経験を重ねたる深見小島其他の諸君が共同經營する所なり、少壮にして練熟せる諸君の前途必ずや石川商會の名肇を辱しめざるべきを信ず、」横浜成功名誉鑑

「漫然世評にのみ據ることは往々にして正鵠を失する嫌ひがあるから 當商会へも屡々訪問したが更に口を開かないで鎖国主義をとってゐる、所謂新聞屋扱ひにしたのかも知れないが商賣振りもそのようである、當商会が此處に開業した抑もを云へば恁ういふ譯である、會主は曾て海岸十番のメーソン商会の羽二重輸出部の主任であったが、菅川清氏が米国に於てメーソン商會主に選ばれて所謂商館番頭でなくより以上の権力を與へられ歸國して其上に立つこととなった、乃で會主は高等商業出とはいへ小壮の菅川氏の下に立つのを潔しとせず現在の處へ獨立し専ら輸出羽二重を業としてゐたが、折しも日本に自転車熱が盛んになったのを見て例のピアスを輸入した處がうれが大當りで現今の基礎を作り業務も其他に 擴張したのである、曩年輸出羽二重組合長に選ばれたが例の主義から間も無く辞職した、公共事業は振り向きもせず社交界に首出しもしない、唯金儲けにのみ汲々としてゐるのである。」実業之横浜



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