横浜第二銀行 本町

横浜第二銀行
本町3丁目45番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

「其創立は我国国立銀行の第二位に在り国立銀行満期となりて今の私立となし営業を継続す資本金百五拾万円積立金 百拾七万円預金六百弐拾五万円を有し公金取扱を命ぜらる頭取は本邦実業界に名ある原富太郎氏にして他重役は何れも資産と声望とを兼ね其社会に信用ある言を待たず同行支配人は行務に熟達し温厚にして着実ある山懸量次氏なり。」現代之横浜

橫濱最初の銀行 株式会社第二銀行「明治二年に設立されし橫濱爲替會社は内外金融上樞要の機關たらしが、五年國立銀行條例の發布によりて解散することゝなれり、同十月田中平八增田嘉兵衛茂木總兵衛、吉田幸兵衛、金子平兵衛、原善三郎の六氏發企人となりて銀行に改造すべく出願し、資本金一百萬圓拂込四十萬圓を以て第二國立銀行と稱して許可を得しは六年一月なりき、然るに此銀行の處置に苦みしは曩に發行せし洋銀券にして、 金券は爲替會社の廢止とゝもに引揚ぐべきは勿論なるも、洋銀券に至りては外國銀行に在りて諸種の洋銀札を發行し、盛に流行しつゝある際なれば、俄かに之を回收せんには市塲を攪亂するの虞あり、是が爲め外國銀劵通用期間は依然流通せしむべく政府の許可を得、十七年五月兌換銀行券條例の發布と共に之が整理に着手して、廿三年十二月に至り全く回收を了せり、これ正金銀行設立前後に於ける橫濱金融界の調理として第二銀行の功勞なり、爾來原、茂木、下田、樋口等諸氏は重役又は職員として、銀行創立初期の困難と鬪ひ、時勢の進步と共に漸次其基礎を定め、近來に至り行務大に整頓し、現在資本金一百五十萬圓、積立金七十五萬圓を算するに至り、支店を東京、前橋、高崎、横須賀に置き、兼て橫濱支金庫の事務を取扱ひ、日本銀行橫濱派出所、日本勸業銀行代理店たり、比の名譽ある橫濱最初の銀行は儼然として本町通りの偉觀を添ヘつゝあり、現代の重役は取締役頭取原富太郎君、取締役增田嘉兵衛、茂木保平、樋口登久女郎の三君、監査役朝田又七、安部幸兵衛の二君にして支配人は山縣量次君なり、山縣君は周防の人開成學校出身にして萬延元年の出生、明治十八年支配人心得として入行以來敏腕の稱あり、副支配人大村精銳君叉適材を以て目せらる、」横濱成功名誉鑑

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