田辺幸七砂糖石油商店 元町

現代之横濱
田邊屋幸七商店
砂糖、石油、メリケン粉商
元町3丁目 122番地 (730)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

田邊幸七 元町3丁目122番地「身を一介の薪炭商に起して活眼達識商機を捉へ雲蒸龍變時勢に應じて機宜を誤らず能く其の大望を達して金港有数の實業家たるに至りしものを田邊幸七君となす君は横濱の人なり天保八年十二月二十五日を以て今の本町通りに生る先代幸七氏の長男にして幼名を銀藏と稱し家薪炭商を業とす君己に長じて尚ほ家に在り時正に幕府の末造に際し天下騒然人皆其の堵に安んぜず一日慨然として此の風雲に乗ぜば萬金の富手に唾して得べしと乃ち薪炭商を全廃して現今の住所に移り石油及び砂糖の輸入販賣に従事す時正に慶應三年某月なり運盛んなれば人天に勝つ況んや百練の手腕を以て天に随ひ機に投ずるに於ておや隆昌日に進みて店前市を成し繁榮月に加はりて倉庫充實するに至れる固より其の所なり後先君のするに及び家を承けて名を幸七と改め革新又拡張遂に以て今日に至れり君資性謙抑退讓德望夙に部内に高明治十年六月元町小學世話掛を命ぜられたるを始めとし同年九月元町惣代人に選まれ十一月第一大區會議員に擧げられ十三年には市街宅地租改正取調委員拜命同年より規則改正に至る迄數年間元町區會議員及び議長たりしが其間元町小學校の改築に関して非常に力を盡せるは同町民の今に感謝して惜かざる所なりと云ふ明治十四年神奈川縣會議員に當選し前後二期間其の職に在り二十二年横濱市會開設以来現今に至る込只半期間を缺くのみ十六年間議員として連續在任其の間土木及び水道の常設委員なり元町外三ヶ所區會亦開設以來議員として就職して議長代理に推さる横濱商業會議所議員としては二十三年創立以来半期間を除くの外十有餘年間連續其の職に在り君叉現に横濱共同電燈株式會社取締役神奈川農工銀行監査役たり」京浜実業家名鑑

「三丁目界隈の草分けで⚫︎田と云へばなかなか響いてゐる店で砂糖、石油、種油、米利堅粉を盛んに輸入して卸小賣を商ってゐるが、手堅い商業振りは内外に信用を博してゐる。三年程以前から馬車道通りの住吉町五丁目の鍵屋の跡を支店として兼務を 擴張し、大に関内へ打って出た。田邊幸七氏は縣會議員市會議員等の名誉職に就かれたこともあって目下は神奈川県農工銀行、横浜共同電燈株式會社の重役で商業會議所議員である。商業は令息が氏の箕裘を継いで快腕を揮ひ敏活な取引をするので、爲に同業者間に畏敬されてゐる。此第二世の活躍する田邊商店は今後より以上の発展をみるであらう。」実業之横浜

元町方面の有力者 田邊幸七「君は横濱土着の人、先代幸七氏の嫡男幼名を銀蔵といひ、天保八年十二月を以て今の本町通に生る、始め薪炭業を營みしが、幕末の時代開港を布告さるるや路組逸巡すべきにあらずと断然志を決して石油砂糖の輸入輸販賣に従事す時に慶應三年なり、次で石油も取扱ひ臨機應變其處置を誤まらず、商運次第に展開して繁榮日に加はり、倉廩月に充つ、君資性謙退にして徳望高し、夙に公共事業に斡旋し、明治十年以來公職にあるもの數ふるに遑あらず、縣會議員として錚々の聞あり、創立以來商業會議所議員として又其職責を嚝ふせず、關係事業としては横濱電気株式會社監査役、神奈川縣農行銀行監査役の地位にありて、老手腕壮者を凌ぐの概ありと傳ふ、」横浜成功名誉鑑

實業之横濱

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