福田写真館 野毛町

實業之横濱
福田写真館
写真業
野毛町3丁目114番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

寫眞師 福田京助「君の初めて寫眞技術に指を染めしは浅草公園北庭筑波氏の門なりとす、天稟の才を有する君は焂忽其堂に入りて斯道の先輩も為めに一驚を喫せざるを得ざりし、明治十八年筑前博多に赴きしが、小川一真氏より北庭氏に適當なる技術者を要求せられしにより、君を擧げて其選に當らしめられき、君の手腕は益々進みて横濱山下町フワッサリー氏の知る處となり、切に請ふて其商會の一員たらしむ、後玉村寫眞館に輾じ技術愈々神に入る、明治廿三年獨立して福田寫眞館を設立し現今に及びしなり、其巧妙なるは世間自ら定評あり、令息は横濱商業學校の出身にして大人の業を補助し、父子共に斯道に碎身さる、」横浜成功名誉鑑

「 新俳優井伊蓉峯の親父北庭筑波氏は知る人ぞ知る写真界の初頭に於ける 有名な技術者であったのだ、今のように俗化せぬ浅草公園に居を構えて斯界の一方に牛耳をとってゐた。館主福田京介氏は其處に寄寓し師事する事多年、技術も可成熟達した處から明治十八年に博多へ行ったが、小川一真氏より北庭氏にゐて適當な技術を有する者が欲しいからと人選を依頼して来たので、北庭氏は福田氏を博多から呼び戻して推薦した。居ること年餘にして其技術を認められて、山手町のフハッサリー商會に招聘された、當時商會はそれを 矜としてヘラルド、メールの二外字新聞に大々的の廣告をしたさうであるそれから辨天通の玉村寫眞館に轉じて大に研鑽を積み、明治廿三年に辭して野毛町通に獨立開業を爲し、一年程經って三丁目に移轉して現今に至ったので、始は外國人の客が尠なからずあったが、それでは舊主家に對して心苦しいといふので日本人専門になったのであって是等の經驗がある氏の技術に就いては既に定評があるから茲に呶呶する迄も無い。商業学校を卒業した令息も昨年来から熱心業務に従事されてゐる。」実業之横浜

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