神奈川県案内誌 |
井上駒次郎商店
電機販売及取付販売店
元町4丁目169番地(304)
明治の横浜写真手彩色絵葉書
「一世は微々たるものであったが二世たる駒次郎氏が大に辣腕を揮はれて現今の盛大を爲したので、前期の山田商店の良助氏と甚だ似通っているのである。夙に海外に渡り電燈、電力、電話、電鈴等の電氣事業一切の視察及研究を爲し、歸來元町四丁目の店にて之等の業務を擴張し傍らアセチリン機械の發明に苦心し遂に完成を見るに至ったが、是が燃料を外國に仰ぐ時は高價を免れ得ない缼點があったので、種々苦心の結果本邦にて開掘採取し得るやうに爲したので完全なものとなった。横浜共同電燈株式会社代理店であって取付工事請負を爲し、神奈川青木元町に支店を設置し神奈川、程ヶ谷方面の衝に當り店飾電燈、イルミネーションなどの工事を請負ている一時は神奈川電燈株式会社が共同電燈に合同したので、其分レガ當店同様の營業を開始して對抗したが、間も無く姿を決して了つた。着實な商業振りは其の壘を摩することは愚か遂に覗くことすら出来なかったのだ。氏は本年商業會議所議員に當選した新議員の一人である。」実業之横浜
電機業の先覺 井上駒次郎「本邦電機業界の泰斗、井上駒次郎君を叙するに當りて、先代重保君の功績は決して沒了す可からず、君は大和奈良の人、世々木商を營む、君に至り大阪に移住し、井上俊蔵氏に就きて寫真術を學び、傍ら川口に於て商人の薬品の取引を營む、明治八年横濱に來り、外國商館に出入して専ら新奇の薬品類に注目したりしが、偶々居留地の理科器械商某の店に至りしに一個の電鈴ありしかば、機警なる君は将来に於て有望なることを看破し、内地に於て製作せんことを試みたり、實に明治九年の頃にして、電機業界に身を置きし第一階段にてありしなり、爾來君は意を電機事業に傾注し、社會の進運に伴ひ、斯業の發達圖り、公衆の為めに貢献せしこと甚だ多く、特に電燈の創設に關しては早くより企畫する所あり、寝食を廃して熱心奔走し、始めて元町中山氏の邸に於て市の有力者の會せるを機とし、電燈を試點し、後再び真金町原町に於て公衆に示したりしが、當時猶幼稚たりし社會は危険なるものとして、警官は電線架設を停止せしめし等の奇談もありて、時機未だ到らず、幾多の資財と努力も只徒に消散し去りたりしが、後年に至り君の主唱其功を奏し、横濱電燈會社の創立さるるに及び、君は其素志の成りしを喜び、熱心斯業の發達に盡力し、會社の特約を得て一部取付工事の代理店たるに至れり、駒次郎君は重保君の第二子にして、明治三年二月大阪に生る、乃父の事業を見聞し、幼にして電機學の研鑽に一身を委ね、十三蔵の頃知名の大家廣瀬氏の工場に入り其初歩を拳びしが、遠大の志望を抱き、一度外國に遊びて其蘊奥を究めんとし、明治十八年七月僅に十五歳の少年を以て、萬里の波濤を犯しりリヲデジャネロ號に便乗して米園に渡航し、翌年更に英國に轉じ、龍動第一の電機工場ウードハウス、ローソン社に入り、晝間は實地を研究し、夜間はフインスペリー大學に於てシルバニャ、タムソン博士の電気學講義を傾聴し、四ヶ年の苦學にてエレクトリカル、インジニャの稀號を得多年の希望玆に至て初めて達するを得たり、ローソン社は世界に於ける最新式の電機工場にして、白熱電球は同社特製の誇りのみならず、實に優秀なる専賣品なり、英國工業家の習慣として、自己の工場に外國人の修行を許すには凡て一定の傳習科を収むるを常とせり、されば君の如きも實に三年間二百五十磅を拂て習得したる課目は、スイッッ、組上、取付、蓄電池、鍛治、蒸汽機關、自熱電球課等にて、殆んど電氣全般に亘りしが、更らに六ヶ月の補習を了りて前後異郷の客たること満六ヶ年、明治廿三年の六月歸朝せり、當時英國に於ても簡便なる點滅用の装置機皆無なりしに、君のローソン社にあるとき一種のスウヰッチを發明して英貨十志の賞を受けしことあり、明治廿九年にはアゼチリン瓦斯を始めて本邦に紹介し、井上アゼチリン瓦斯洋燈を發明し専賣特許を得、一方には原料カーバイドの輸入を防止せんが爲め仙䑓及長岡の両所に該製造所を共同開設して、其監査役たり、明治卅八年厳父の後を受けて電燈會社の代理店となり、今や本邦に於ける斯界の重鎖として益々發達されつつあり、君年齒猶壮、希くは斯界の爲め健在なれ、」横浜成功名誉鑑
井上駒次郎「電燈電話電鈴其凡て電氣を應用する處の機械は需めて得られざるなし然も價の廉なる装置の速かなるは本舗の特色なりとす」京浜名家総覧職業
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