駿州屋松下回漕店 北仲通

駿州屋松下回漕店
回漕業
北仲通2丁目27番地 (605)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

松下鎨一 北仲通2丁目27番地「商業の道其揆多端なりと雖も至誠之れを貫くにらざれば則ち其の才識資量と手腕腦漿とは偶々以て自ら傷け自ら破るの具たらんのみ曰く信用曰 く確實皆是れ至誠の流露のみ至誠の発動のみ百術は一誠に如かず吾人松下一君の經歴に顧みて倍々其の言の妄ならざるを知る君は明治八年六月二十二日を以て静岡市本通り二丁目に生る父を野呂整太郎氏と云ひ其の長男なり君生れて才氣横溢夙に商業に志し明治二十七年東京商業素修學校全科並に研究科を卒業す後横濱なる親戚松下定助氏の養嗣子となる同家は横濱開港當時より運送業を開始したるものなり君己に家を承けてより一意先業を墜さざるを以て念となし至誠確實を旨として熱心勉強せしを以て事業は駸々として進み遂に店員百有餘人營業所本店各出張所を併せて十ヶ所小廻船百隻曳船汽船二隻を有するに至りしが今や共同運輸會社成るに及んで外航部の事業は擧げて之を會社に編入せるも内航部は依然として松下囘漕の店名の下に營業し益々發展の策を講ぜり今囘又更に汽船部を大阪川口富島町に支店を門司に出張所を下關に設け新に宇和島汽船會社所有船第三第八第五宇和島丸を買収し己に瀬戸内海の航海中に屬すと云ふ君至誠國を憂ひ又博愛情の念に篤し二十七八年及び三十七八年戦役に際し金品を献納して共に銀盃を賞賜せらる其の他各地の災害に對して金品を贈り木盃賞狀等を受領せるは殆んど数ふるに遑なし又店員に對する懇篤を極め待遇の豊裕なる他店の比すべきにあらず感化の及ぶ所翕然として風を成し忠實熱誠業務に勉勵せざるなし嚢きに外航部の店員一同共同運輸會社に轉ずるや一同謝恩の意を以て紀念金盃贈呈の計畫ありと云ふ以て君が家風の一班を窺ふに足らむか」京浜実業家名鑑

「北仲通二丁目二十七番地に開口拾間の店舗を構へ店員百有余人を使用せる松下回漕店は、安政六年横浜開港と同時に開業し、爾来横浜港の発達と共に、日進月歩今日の隆運を来たし、全国各港各地苟も舟車の往来する處松下回漕店の名を知らさるものなく、既に海外にまでも宣伝して取引区域は斬次拡張して現に税関貨物取扱人、日本郵船会社荷扱、三井物産会社、オットラウメルス商会、横浜肥料会社の一手荷扱及び内外綿花会社一手荷扱所たるにも拘らず、現店主松下鎨一氏は猶以て足れりとせず鋭意改良拡張の歩武を進めつゝあり実業之横浜

「松下回漕店の組織変更 松下回漕店は二月一日を以て大日本共同運輸株式会社へ合同し従来取扱ひ来りたる外航事務一切を挙げて之れに引続く事となりしが同店内航部及帆船部は依然残存して松下回漕店の名義を以て一層の精力を注ぎて営業すと云ふ合同と同時に従来執務し在りたる店員は共同運輸会社転勤することとなりたるか多年会社の恩顧を受け殊に店主松下鎨一氏は多年店員に対し恩威并び行はれたること深厚なりしを以て店員は店主に訣るることを惜しみせめてもの紀念として各自醵金として金子及頌德表を贈呈したりと聞く店主も亦離別店員一同に対し金数万円を頒輿したりといふ是れ本誌が前号に紹介したる松下回漕掉尾の一美学なり但し外航事務は共同運輸に引継きたるも二月中だけは北仲通の主店にて執務するとなり」実業之横浜 

「松下回漕店汽船部の新設 横浜市北仲通松下回漕店に於ては今回大阪河口に汽船部を新設し第一、第二、第三、第四、第五、第八宇和島丸及び泰盛丸の六隻を購入し内地沿岸航路に充て乗客及び貨物の運搬並に臨時貸船の需に応ずる由にて本月中旬より開業すべしと聞く、横浜市の人にして関西方面に起業するは是迄甚だ少かりしに松下氏が新に此方面に雄飛せんとするは頗る快事といふべし」実業之横浜 


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