野沢屋呉服支店 伊勢佐木町

野澤屋支店
呉服卸小売
伊勢佐木町1丁目10番地
茂木惣兵衛が元治元年(1864)野澤庄三郎の雑貨商より独立し開業した。伊勢佐木町支店は茂木家の多くの建物を手掛けた月野猪八郎の設計で明治42年(1909)年に開店した。営業品目は呉服太物、毛布膝掛、洋傘、指環、化粧品、雛人形、メリヤス類、羽根蒲団、子供帽子、小間物、袋物類、武者人形
明治の横浜手彩色写真絵葉書

「横浜の富豪茂木惣兵衛氏の経営に係るが故に資本豊富にして信用又其右に出づるものなし人呼んで横浜の三越と云ふ蓋し呉服店中の巨擘なるが故なり此一時以て営業の盛大にして同業者中一頭地を抜けるを知るに足るべし先年市内弁天通なる本店を伊勢佐木町支店に合併し増築を行ひ諸事一大改良を加へ面目を一新して更に一段の隆盛を加へたり。」現代之横浜

「横浜市内の呉服屋としては関内に於て野澤、太田町武蔵屋、山形屋等が最たるもので、関外ではつるや、伊勢佐木、吉田の両徳島や、越前屋吉田町武蔵屋を主とし、亀の橋通りの相模屋も近頃メッキリ売出して鶴屋に拮抗せんず勢であるが、先ず関内に於ける呉服屋としては十目の見る所十 指の指さす所、野澤が一番で関外に於ても尤も景気好くやって居るのはつるやである。特に野澤に至っては四季に売出す新柄といひ其品物の正確なる點といひ、確に横浜市に於ける流行衣裳の源泉であり市内呉服店の総大将である、且つ其得意は中流以上の家庭が多数を占めて居る所から流行の珍柄も亦主として中流以上の紳士夫人令嬢向を専一として選択蒐集して有る様である、東京に於ける三越、京都に於ける高島屋に対抗すべきものは、横浜に於ては則ち野澤である。 併し野澤の営業振りは保守的である、近くは三越の如き小売法の改善に汲々として其店頭装飾といひ、顧客の接待方法といひ、其広告の仕方といひ実に広壮雄大なるもので、遠くは高島屋の如き随分奇想天外より墜つるかの意匠を凝らして広告したり、其店内設備、店員採用の方法如何なる貴婦人を延いても間然する所なき迄に整頓して居るに拘はらず、野澤は、此進歩の大勢に著しく遅れて居ることは、吾人の立場から批評して甚だ慚愧遺憾の次第である、吾人は野澤の経営者が一段の生気を発揮し来って、智識を世界に集め、横浜に於ける模範的小売店の実を挙げられんことを望むのである」実業之横浜 m40.04



現代之横濱

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