奉祝記念誌 |
横浜取引所
市場
南仲通3丁目56番地 本町3丁目42番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書
「明治二十七年の創業資本金積立金共二百餘萬圓。仲買人四十五人。蠶絲、米穀、株式の定期取引を爲す。建物は大正二年に類焼し新築なり。」横浜遊覧商業案内
横濱唯一の定期市塲 株式会社横濱取引所「横濱に於ける米穀株式取引の機關たる米穀株式取引所と、帝國重要輸出品中の大宗たる生絲標準相塲公定のパロメートルなる蠶絲外四品取引所の兩株式會社は、明治四十二年十月廿三日を 以て合同の契約を交換して、四十三年三月一日横濱取引所の開所を見るに至れり、資本金二百萬圓、實に横濱唯一の定期取引機關と爲す、抑も吾橫濱市に於ける取引所の濫觴は遠く洋銀相場に始る、文久年間既に洋銀買入を爲す者あり、明治二年政府は洋銀購入所を設け、次で貿易銀を鑄造して取引の便を圖れり、十年西南役後銀紙の差益々懸隔するに及び、洋銀取引所及び金穀相塲會社の設立あり、南仲通は其中心として殷盛全市を壓せり、田中平八左右田金作等の諸豪此間に於て名を爲したりき、明治十二年又は十三年に於て洋銀相塲奔騰の極屢々取引停止の厄に遭ふ毎に益々盛况を加へしが、十八年紙幣整理の結果銀紙の差止むに至り、所謂弗相塲なるものは全く終りを告ぐ、明治六年田中平八氏等は金穀相塲會社より分離して高島町八丁目に米穀相塲營業所を移し、洋銀相塲と相並んで繁昌せしが、廿六年取引所法の發布あるや、米穀取引所は黒部與八氏等の一派と田代市郎次氏等の二派と三派同時に發起せられ、競爭激甚を極めし末大谷嘉兵衛氏の調停により、廿七年十二月黒部氏を理事長として尾上町五丁目に開業し、次で神奈川雜穀取引所發起人と合同して、米鹽雜穀取引所と改稱し、三十年一月增資開業せり、之より先廿七年綿絲棉花金屬株式の四品取引所は木村利右衛門氏を理事長として南仲通四丁目に設けられ、日淸戰後は一時大に繁榮を極めしが、其後財界の不况と共に卅二年遂に米鹽雜穀取引所を併合して株式米穀取引所と成れり、資本金は數回の增减あり、五品と合併の當時は八十萬圓なりし、四品以來の理事長は木村氏に次で高梨哲四郎、佐藤政五郎、平沼延治郎、渡邊貞次郎諸氏歷任し最後に佐藤氏再任せりと、理事は黒川九馬、松村辰次郎、木村庫之助、石原菊太郎の諸氏なりき、蠶絲外四品取引所は廿六年取引所法の發布と共に蠶絲貿易商相謀り、原善三郎氏外五十九名の發起人を擧げ、翌廿七年七月營業を開始せるものなり蠶絲、製茶、綿絲、織物及び海産物を取引品目とし資本金一百萬圓、理事長は原氏沒後若尾幾造氏之に當り、渡邊澁澤金子大澤の諸氏を理事とし、書上(順)渡邊(庄)渡邊(文)の諸氏を監査役とし、蠶絲の取引は最も隆盛を呈し、其公定相塲は世界に於ける生絲市塲の標準として大勢を左右するの力ありしと云ふ、今や此光輝の歷史ある二取引所合併成る、橫濱に於ける定期市塲は統一せられて、蠶絲、株式及び米穀の取引は多々益々隆盛を加ふべきなり、」横濱成功名誉鑑
現代之横浜 |
横浜市商工案内 |
0 件のコメント:
コメントを投稿