若尾商店 本町

若尾商店
蠶糸絲及屑絲
本町4丁目63番地(18)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

若尾幾造 本町4丁目63番地 別邸 花咲町7丁目84番地「神奈川縣多額納税者にして現に横濱市參事會員たる若尾幾造君は安政四年十二月八日山梨縣中巨摩郡在家塚村に生る幼名隣之助と呼び長じて林平と稱す後ち父君の名を襲ざ幾造と改む資性闊達にして頭腦極めて明快勇断に富みて畫策時運の啓發に努むるや切なり其巨萬の富を重ねるもの乃父其基を成したるに因ると雖も君の夙に父君を輔けて四方に奔走し企畫其宜しきを得たるに因るものならずんばあらず以下君が略傳を記して其今日在るに至れる所以を明にせんと欲す君や幼にして父君と共に伯父若尾逸平氏に寄り備さに辛酸を嘗む明治七年歳十八にして横濱に出で蠶絲洋物棉花砂糖等の賣込及取引を業とす大小の事務擧げて自ら之に任じ經營甚だ勉む其結果年を逐ふて産漸く成るに及び明治二十五年平沼專藏氏等と共に横濱共同倉庫會社の設立を発起し又二十七年横濱蠶絲外四品取引所設立に盡力し創業總會に於て理事に選まれ三十二年七月同理事に擧げられ引続き其職に在り甘八年九月横濱商業會議所設立に付創立委員に選まれ引続き其會員たり後又横濱共同電燈株式會社取締役に甘九年には東京電燈株式會社監査役に三十年には横濱火災運送保険株式會社取締役に三十一年八月には元日本鐵道株式會社取締役に三十五年十一月には横濱鐵道株式會社創立に付發起人會に於て其創立委員に選まれ更に其専務取締役に推さる此外各種の名譽職並に公共事業に盡し若くは管財人等に擧げられたるもの枚擧に遑あらず其數實に二十五件に及ぶ君の公私に爲したる功績亦偉なりと云ふべし今や市參事會として市民の輿望日に加はり公私の事業君の力に俟たるるもの少なからざるなり三十九年日露戰役の功により勲五等に叙し瑞寶章を授けらる」京浜実業家名鑑

若尾銀行 本町4丁目63番地「若尾幾造氏一家の合名になる君之が頭取たり乃父以来財界に於ける勢力を以てせるが故に其信用の度も亦た量り知るを得べし同行の資本金額五拾万円積立金九万七千円預金七拾 四万円にして基礎の鞏固なる市内銀行中に在りて屈指せらるる所なり。」現代之横浜

「店主若尾幾造君は生絲貿易商にして多額納税者の一人たり又銀行業を営み横浜屈指の商店として知らる、君は生絲貿易商同業組合の副組長として生絲貿易の為に蓋し又神奈川県下製絲の改良発達に力を注ぐこと尠なからず従て同商店の同業者間に重きを至せる知るべきなり。」現代之横浜

事業界の偉傑 若尾幾造「神奈川縣多額納稅者にして横濱市參事會員たり、生絲貿易商にして銀行家を兼ね、各會社及び取引所の重役を重ねる廿餘件に及ぶ、若尾幾造君は啻に横濱に於ける第一流の巨商たるに止まらず、 實に我中央實業界の重鎮たり、蓋し君の賦性活達敏慧にして頭腦明鬯、時運に従ひて能く斷じ能く行ふの快腕あるが爲めならん乎、君は山梨縣の產、幼にして父氏とともに伯父若尾逸平氏に寄り、艱苦の間に人となり、隨て人格を研修せり、長じて横濱に出で蠶絲賣込及棉花、砂糖、洋織物の引取を營み、辛苦經營の結果、次第に頭角を顯はし、明治廿五年平沼專藏氏等と貿易倉庫を設立し、廿七年蠶絲外四品取引所を發企し、成立後其理事に選ばる、其他横濱電氣會社及び橫濱火災運送海上信用保險株式會社、横濱鐵道株式會社、横濱倉庫株式會社等の創立に參し各其重役となり、一面市の發展に資せり、廿八年横濱商業會議所設立に際し、創立委員より延て常務委員となり、卅一年には元日本鐵道會社の取締役に推され、其の他種々の名誉職公共事業等苟くも當市に起るもの君の姓名を列せざるものは尠なし、三十九年日露戰役に際し軍資金献納及び後援事業に盡瘁せし功により、勲五等瑞寶章を下賜せらる、君や實に事業家の泰斗にして、且つ市の先覺の一人として、名譽夙に全市に響けり、」横浜成功名誉鑑

若尾幾造「巨萬の富を重ねし當年の主人逝て氏其後継たり營に貿易界の巨魁なる而巳ならず銀行家として濱港の財界を左右するの重望家たり戦後の經營夫れ之を努めよ」京浜名家総覧職業

奉祝記念誌

神奈川縣案内誌

横浜商品日報

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