アリスルーズベルト再来日

セオドアルーズヴェルトの娘アリスルーズヴェルトの再来日
1回目の日本訪問は明治38年(1905)7月25日、アリスルーズベルトは米国陸軍卿タフトとともにマンチュリア号で来日している。その後、日本からフィリピン、香港、広州、北京、韓国を経て明治38年(1905)10月4日に再び日本を訪れるが単独訪問でもありそれほど歓迎はされなかったようでもある。アリスは初回と今回の訪問の間に9月5日の日露講和条約の調印があり、アメリカに対する風向きが変わったと捉えていた。


10月4日 ミネソタ号で来港。税関監視部前から幌付馬車でオリエンタルホテルに宿泊。 
10月5日 横浜駅を出発し鎌倉に。米公使グリスカム氏の由比ヶ浜別邸に宿泊。 
10月6日 鎌倉駅を出発し横浜に。オリエンタルホテルに宿泊。 
0月7日 市内遊覧とお買物。 
10月8日 横浜駅を出発し築地精養軒で朝食、午前9時上野を出発し日光金谷ホテルに宿泊。
10月9日 中禅寺湖を観光し日光金谷ホテル宿泊。 
10月10日 東京に戻り、米国公使館に宿泊。
10月11日 新橋駅を出発し横浜到着、オリエンタルホテルに宿泊した。
10月12日 市内遊覧とお買物 
10月13日 午後3時出航のサイベリア号で帰国した。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

アリスルーズベルト嬢

信濃屋洋品店 弁天通

信濃屋洋品店
西洋小間物 雑貨
弁天通4丁目70番地
(1197)
慶応2年(1886)の創業で太田町3丁目で洋品店を開き、後に弁天通に移転した。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「信濃屋の女将と住吉町の有泉の女将とは嬶天下の一対であることは隠れもない評判であって、又当店女将の前身が洋妾であったことは隠されない事実である。旦ツクが没したので遺産を頂戴しそれを資本に開業したのであるが、目色毛色の変った旦ツクを持っただけに多少感化されたものが鳥渡機敏な處もある、まだ広告なぞとふものがあまり世に用ひられない時分に桜木町の踏切手前へ汽車の窓から見えるように目先の変った広告をしたりなどした。買物に出かける時は美装をして 合財袋を手に持ちしやならしやならとお練りで行き、それはそれは営業者も驚く程な緻密な買方をする、商売も總べて此の遣り口で女将が采配を振ってゐるのである。」実業之横浜

信濃屋 吉澤房次郎「錦上花を添ふの小間物幾多を刎ね弘く世に高評を博せり最新の品類と格安の直段とは当店の特色にして又仕入れの多きも一異彩を放つに似たり」京浜名家総覧職業

信濃屋洋品店 吉澤房次郎「辨天通四丁目の角馬車道に面する處、巍然たる宏壯の一洋品舖あり、之ぞ開港以來の老舗として名高き信濃屋洋品店なり、指を繰る實に慶應二年の創業にして、現主吉澤房次郎君の祖父初代吉澤氏は信州松本在に生れ、早くより出濱して、種々の事業に從ひ、後太田町三丁目に洋品店を開き、同十年現所に轉じて其隆盛を期す、爾來店運の昌んなる驚くべきものあり、現主は明治元年に生れ、三十一年父の業を繼ぎたるもの、而して其の發展と共に内外顧客の信用厚く、物貨の富豊と品質の優良なる點に於て斯業者中の白眉たり、君叉淸國貿易に志あり、三十九年淸國杭州城内に信濃號なる支店を開設し、專ら本邦雜貨の轍出販賣を爲しつつありと云ふ、」横浜成功名誉鑑


現代之横濱

アメリカ領事館 山下町(日本大通)

アメリカ領事館
山下町234番
明治8年(1875)頃竣工
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

吉田橋開通記念 馬車道通

吉田橋開橋記念 馬車道通
鉄の橋からコンクリート橋へ架け替えられ明治44年(1911)11月1日に記念式が開かれた。新吉田橋の設計は石橋絢彦。この景色は馬車道吉田橋側から横浜正金銀行がある海方向を眺めたもので、通り右手に建つ二つの塔は文房具の文寿堂。馬車道を走行する横浜電気鉄道は明治38年(1905)12月15日に開通した住吉町線。
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神奈川県警察本部 本町

神奈川県警察本部
警察
本町1丁目3番地
片山東熊の設計で大正2年(1913)竣工
大正の横浜手彩色写真絵葉書

報知新聞巡航博覧会 万国橋

報知新聞巡航博覧会 万国橋
明治39年(1906)9月から11月にかけて【ろせった丸】を会場に【巡航博覧会】が報知新聞主催で全国巡航開催された。横浜では巡航博覧会の門が万国橋前に建てられ、9月16日、17日に開催された。
明治の横浜手彩色写真絵葉書

横浜中央電話局 山下町


横浜中央電話局
山下町169番
明治33年(1900)竣工
明治の横浜手彩色写真絵葉書

横浜開港五十年祭 本町

横浜開港五十年祭 本町
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「本町通りの盛観 同町は壹丁目新紀念館建築地附近より六丁目辨天橋に至るまでの間に屋形附の柱を建て『開港紀念祭』と大書したる長提燈と千五百燭のアーク燈十三個を設備し夜中は之れに點火する趣向にて屋形の上には花傘を飾り各戸紅白の幔幕を張り詰め斯の廣き通りも殆んど人を以て塡められ所謂肩摩穀撃の光景を呈せしは寧ろ凄まじき許りにて共粧を凝らされたる有様は筆舌に盡し難きを覺え美観を蓋せし全町の彩光華影と人の花とは相映じて實に空前の盛事に空前の盛観を現出したり。同町一丁目の左側新紀念館建築地附近に天照皇大神立像の鉾花車あり、開港の紀念に開國の始祖とも申べき大神の立像を拝するは特に懐舊の情を一入深からしむるを覺ふ。殊に朱欄金色燦然として人目を奪ふの感あり、その傍らに瀬戸物類、大皿小皿、杯なぞにて鎧、小手當、脛當を又大小刀の東を花瓶にて作り同じく瀬戸物にて巻きたる天秤棒に舊町會所の時計䑓に釣せし大釣鐘と一方に市の徽章を記せし大提燈とを下げ之れを憺へる辨慶の立像あり、周圍に磯馴れ小笹なぞの配置よく原野の趣を偲ばしめたるが是は陶器商組合の飾り物なりと、右側にはキリンビールの發賣明治屋商店にて店頭を綠葉にて装飾し其前に麥酒壜を利用し鳥居形のアーチを建てたるが目立たり、同側のサムライ商會にては廣き店頭にサムライと云ふ名に因みて舊幕時代の大名行列の豆人形を飾り屋上には金色の大鷲が四界を輝かしつつあり、二丁目の左側三井銀行支店にては二個の大綠門を建て其下に舊横濱村の景を箱庭風に作りて飾りたり、その汐干の港、本牧の鼻、掃部山、横濱村の濱邊に網や舟なぞの千されたる様は宛然五十年前の昔を想像せしむるに足るものあり、此隣には美人花に酔ふと云ふの飾物あり右に風姿楚々たる竹林をしつらひ左りに石榴二株、古りし庭の俤を現はし其間に生間垣まめぐらせる門あり、垣の外づれに紅薔薇の花二三輪を咲かせたる風情床かしく門の入口には石灯籠を掩ひて紅葉の大木あり其奥に藁葺屋根の瀟洒たる小座敷を設けここに淡納戸色裾模様の衣裳を着けたる美人、椿の花を嗅ぎて立てる活人形を飾りたるが語らば将に物言はんとするの風俗、行人の等しく足を止めて恍惚たるものあるは又た偶然に非ざるなり、尚ほその背後に『祝開港五十年祭、本町會』と記せる軸をかけ其下に磯馴を活けあり、其側の四丁目には八幡太郎の鉾花車あり、朱欄錦繍は眩き許りにて壹を掩へる西陣の浮織に、亂れ雁數羽を織り出だせるは源義家が奥州後三年の役に雁の亂れ飛ぶを見て伏兵あるを悟りたるに因みてなるべし、義家の像は祝賀々場を莅みて高く儼然として弓を杖に立て威容凛乎たり。四丁目右側の増田屋商店の前なる柳の蔭に一圍の井戸あり、今は本町の往來に撒布する用水に供され居れるが此井戸こそ五十年前の横濱村の庄屋が遣物なりといふ夫れかあらぬか其の井戸の邊りに杉の皮にてしつらへたる假屋の窓に『昔の横濱』と書き記したり其の壁の杉皮を支ふるに櫂を用ひ夫れに網を下げ其苫屋を掩ひて左右に松を植ゑ、一入漁村の趣きを探からしめたるなぞ疑りたる意匠頗る奥床しく見えたり。其隣り角に總黒塗の踊屋䑓あり、十二三より四五歳許りの可愛氣なる少女等が花と開き蝶と舞ふ、七扇連中の踊りにて太鼓は杉田義松、小皷は六郷新吉、大皷は菊川芳次郎、三味線岡安君代、同喜作、長唄は小菊等にて踊の番組は、三番叟、船頭、菖蒲浴衣、おかねおんど、小原女、角兵衛、汐汲み、三めん、子守、枝つ葉、たきやしや、浅妻、かむろ等にて三日間此番組を繰返し演じたり。尚ほここは祝賀會場に至る往還馬車道と本町との交叉する四つ辻に當れる地なるを以て會場方面に至るものと馬車道通りに赴く者と前記の花車や踊りを観るものと打ち混ずるが故に遉がの廣き道路も塡めて全く立錐の地も餘まさず六七名の巡査聲を嗄らして之を制するなぞ其混雑々沓殆んど名状すべからず、是を過ぎ群衆を排して進めば五丁目角に居囃子あり六丁目には厳島紳祉の祭禮と提燈に國旗とをイルミネーションにて現はしたる貿易新報社の一装飾あり衝き當りの辨天橋は両側欄干上に瓦斯を隙間なき程に装置して夜中は之れに點火し畫を欺くの壮観を現出せり。」横浜開港五十年紀年帖