萬屋桑原輸入商 境町

萬屋桑原商店
米穀、石油、硝子輸入商
境町1丁目4番地(114)
明治の横浜手彩色写真絵葉書

桑原福太郎「桑原商店の創設者、桑原福次郎翁は遠州濱松の人明治初年壯なる頃横濱開港を耳にし、滿身の覇氣禁ずるに由なく、飄然來りて一商機を捉へんとす、影暗き孤燈の下如何に其旅情をか照らせし、 果然其の烱眼に入りしは他なし石油の前途有望なるの一事なり、奇貨逸すべからずと手に唾きして立ころに數十箱を買入れ京濱に轉賣せしに、其明や違はず一撃して巨利を博せり、此の花々敷奇功によりて序幕は開かれぬ、次でスタンダード石油會社と特約し、増田阿部二氏と同盟し、米國石油の日本一手販賣を特約するに至り、其他米穀に砂糖に鐵類に、機に望み變に應じ、 苟くも翁の手に觸るる所一として勝利ならぬはなし、奮闘活劇商界の一方に旗幟を翻へし、忽ちにして巨商の列に入れり、二令息英四郎倉之助の両氏、又能く翁を助けて家運日に隆々たるものありしが、昊天の恩寵長へに翁の家門に留まらず、有為の二息翁と前後して易さる、不幸譬ふるに物なし、之より先明治卅五年二月、翁は店規を改め一門を合名組織とし、鞏固なる基礎を建設して卅七年十二月溘焉白玉樓中の仙と化せり、嫡孫福太郎君は明治十一年を以て生れ、幼にして父を失ひ、弱冠商業學校を卒りて後、新智識を提げて家翁を助け、叔父倉之助氏と共に業務擔當社員となり、益々業務の携張を計り、叔父没後更らに従弟金之助氏と協力して、亡祖乃父の遺訓を體し、着實を主として専ら家業に盡瘁せられつゝあり、氏年齒猶壯、父祖の遺業をして益々光輝あらしむるもの近き將來にあらん、」
桑原金之助「桑原金之助君は桑原商店の始祖福次郎翁の二男倉之助氏の息なり、倉之助氏の兄英四郎氏は不幸にして明治廿一年早世せられしかば、倉之助氏其後を承て福次郎翁を輔佐し、大に辣腕を振ひて業務の發展に勉め、石油、米穀、鐵類及硝子等の輸入事業に向つて益々規模を張し、 桑原商店の基礎を作りしは其力多きに居る、明治卅五年合名組織と爲せし後、甥福太郎氏と共に業務擔當員として經營畫策宜しきを制し、本業の傍ら猶他の事業等に参畫せしと少なからず、中央倉庫、横濱電氣鐵道、横濱製糖等の重役又は大株主として重きをし、商業會議所議員其他の公職に推されて公共方面に盡したること頗る多く、三十七年父翁歿後は更に桑原家の柱石として共重を負ひしが、四十一年八月不幸物故せられたる爲め、令嗣金之助君其後を襲ふて従兄福太郎氏と共に、 乃父祖の遺業を守り、益々家運の隆昌を期しつつあり、 君年商齒正に従兄と相如き、共に少壮有爲の資あり、世人稱し桑原商店の雙璧に喩ふ、」横浜成功名誉鑑

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