二上茂兵衛塩商 花咲町

鹽茂 二上茂兵衛
塩問屋
花咲町2丁目21番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書

鹽問屋兼廻船問屋(鹽茂)二上茂兵衞「先代茂兵衛氏は快活なる好漢であつて、越中高岡二上城下の人で前田侯に奉仕し、其参勤に従ひ東上すると三回、終回の時江戸に止まり上州屋多右衛門と呼ばれた鹽問屋兼金物屋に奉公した、然るに同家には曾て茂右衛門と云ふ老番頭があつたので、主人は氏の忠實なるを愛てて特に其名を襲名せしめた、氏は明治二年に横濱に移住して多年練磨した鹽製造業を創めた 由來本牧金澤等一帯の沿岸は鹽の産地で、是によりて生計を営むものが頗る多いので、外来の孤客が突然新事業に投ずるを見て憤怨措く能はずとして、鈴木佐吉等の一派は金澤製鹽者と團結して、暴力に訴へて其發展を壓迫せんと企てしを唯に一再のみではなかったが、氏は萬難を排して素志を決行し、水戸浪士川俣某及び薩藩篠原國幹の舎弟等數名を食客として鋭意發展を企圖した、啻に自家製造の製鹽のみならず店員を派して各地の産鹽を賣收し、神奈川に倉庫を建造して之を貯蔵し、時機を待て一時に賣却して大利を攫すると云ふ有様であった、又往昔三代将軍の命により創設せられし大師河原の探鹽田が荒敗に歸し居りを遺憾として再興を企畫し、前後十年の星霜を費して六百餘町歩を開拓したと云ふ、其他慈善と義侠に富み、貧窮者を見れば救恤を怠らず、官の賞状は積んで山をなすに至つた、嘗て花咲町より福富町に通ずる道路其他數ヶ所の開通に際し其敷地を献納せること數回で、是等によりても賞杯等の下賜幾干なるかを知るに苦しむ程であったが、去る四十年七十一の高齢を以て歿せられ、嗣子茂兵衛君乃父の遺業をぎ今猶商況頗る盛である、 況んや新進の學問を修め父祖傅來の俠骨稜々として見るべきものがある、日清戰争當時には義勇團を組織し臺灣及清國各地を跋渉して歸った、今や年齢益壯に、磨礪せる圭角光輝を發して今後の發展家翁に慚ちざるものあるべきは吾人の決して疑はぬ處である」横浜成功名誉鑑

「赤穂鹽台灣塩䀋等有らゆる品種山積し倉庫亦参差たり其取引の活潑なる商機に敏速なるの一班を知る繁栄の理由亦故なきなり」京浜名家職業総覧

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