ホテル・ド・パリ 山下町

明治時代の横浜の古写真、ホテル・ド・パリ
ホテル・ド・パリ
ホテル
山下町179番地
薩摩町通り、ホテル・ド・パリ前、日露戦争に出征する兵士たち
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

蒔田

大正時代の横浜、蒔田の古写真
蒔田
写真裏面に「蒔田」の記述
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

杉田の梅

杉田の梅
横浜花の名所
平地が狭く、地質も穀類の生育に適さなかった杉田の地に、天正年間 (1573〜1592)の領主間宮信繁が梅を植樹させたのが杉田梅林の始まりで、元禄の頃(1688〜1704)には梅の名所となり最盛期には36,000本の梅樹を数えた。文化年間(1804〜1818)に出版された佐藤一斎の「杉田村観梅記」、清水浜臣の「杉田日記」により観梅の地として名声を得、明治17・19年(1884・1886)には英照皇太后と昭憲皇太后が妙法寺を訪れるなど明治初期までは梅の名所として名高かった。明治20年代に入ると塩害や老衰などで急速に梅樹が減少し始め、戦後には宅地造成によりその地を奪われ今は妙法寺周辺で僅かに数十株を見るだけである。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「八幡橋電車停留場よりは一里弱。海濱に沿ふて行くを以て風景甚だ佳。屏風ヶ浦を過ぎ白雲の匍ふと見ゆるは梅林なり。臨海の一丘に登り下瞰すれば神気一輾仙境の人。『よそにのみ杉田の梅の花盛り嬉しく逢へる今年なりけり』の濱臣の歌あり。」横浜遊覧商業案内 t.2

横浜の酉の市

明治時代の横浜、酉の市の古絵葉書
横浜酉の市
11月の酉の日に行なわれ、横浜市の無形民俗文化財に指定されている
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

伊勢屋陶磁器店 初音町

明治時代の横浜の陶磁器店
伊勢屋 関野金蔵
陶磁器販売
初音町2丁目
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

榊原綿店 宮川町

實業之横濱
榊原綿店
綿販売
宮川町3丁目43番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

機械打綿業の鼻祖 榊原常吉「明治七年三河國額田郡藤川村に生れ、三十三年横濱の大火に膺り、新事業の好望を見越して徒手空拳出濱したる榊原常吉君は、橫濱に於ける機械打綿業者の始祖として重んぜらる、君年弱冠郷里に在り、綿絲及木綿織立業を營み、後ち打綿業の有利なるに着眼し、九州より打綿機を購求して業を替へしが是れ三州打綿機の嚆矢にして、爾來改良を加ふる事幾度、以て今日に及ぶと云ふ、君當初高島町に創て機械を据ゆる僅かに一臺、漸次盛大に赴き三十四年東京四ツ谷に同三十九年當市南吉田町に各工塲を設置し、更に四十年に至り英國製機械數臺を購入して大發展大改良を圖れり、現時三工塲を通じて英國製機械五臺改良三州機械十三臺、一日の生産力約六百二十貫目に上ると云ふ、洵に異數の成功なり、君勤勉忠實常に器械の改良、製品の改善に焦慮し、其の發明になる伸綿切断機、切断機及打綿機(二種)の四種は專賣特許を得たり、又其の製造に係る靑梅綿は品質佳良にして遍ねく賞讚を博しつゝあり、」横濱成功名誉鑑

西川オルガンピアノ製造所 日ノ出町

神奈川縣案内誌
西川オルガンピアノ製造所
西洋楽器製造
日ノ出町2丁目29、30番地
(841)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

西川虎吉「其音律の正確に於て其値段の低廉に於て優に舶来品を凌駕する者は本舗の風琴なりとす学校教會堂の注文常に絶へざると云ふ」京浜名家総覧職業

洋琴風琴製造元祖 西川虎吉「西洋樂器の高價にして洽く需め得ざるを憤慨し、獨人力エルノ及び英人クレーン二氏に就き、研究數年、終に良結果を奏したる西川虎吉君は、千葉縣の人にして《嘉永三年生》幼より三味線の職工となり、年壯なる頃已に天下の名匠を以て評せらる、君の洋琴に志を傾けしは遠く明治九年の頃にして、漸く十三年に至り工塲を設置し製造を創めたり、此閒の苦辛慘澹實に言語に絶す、親戚知己は皆その策の誤てるを愁訴するも頑として應ぜず、萬難を排して終によく堅牢なろ樂器を製造し、音律正調構造雅美優に舶來品を凌駕し、却て海外に向て輸出するの盛況を呈せるは、唯り君一己の名譽に留まらざる也、蓋し本邦に於ける洋樂器製造の鼻祖とす、されば内外博覽會に於て數回の賞牌を受け、宮廷御用は勿論、東京音樂學校、陸海軍々樂隊の如きも君の製品を採用せり、先年愛息安造君を米國に渡航せしめ、實修數年悉く淇薀奧を極め、大に製品の改良を圖れり、四十二年馬車道通りに販賣店を設けて更に業務を擴張す、又自家製品の外獨逸製ヴァイオリン及附屬品等をも直輸入して顧客の需めに應ず、現今日本第一の樂器製造所として内外人の賞讃措かざる所なり、」横濱成功名誉鑑

西川虎吉 日ノ出町2丁目28番地「我國風琴製造界の覇者として元祖として盛名ある西川虎吉君は實に嘉永二年七月を以て千葉縣君津郡周南村に生る伊藤德右衛門氏の三男なり家は代々農を以て業とす拾五歳出でて奉公せり其頃より既に楽器に對する嗜好は涵養せられたり甘一歳にして三味線製造に従事し地を横濱に撰ぶ時に明治九年なり翌年英國人クレン氏に就き將來洋楽の我國に流行せんことを想ひ風琴製造業を創めたりが微々として振はず多くは修繕に止まり十五年三味線の業を廃し専ら斯業に従事せしが氣運の洋楽に傾かんとするを見内は顧客の需用を満たし外は泰西輸入品を制肘せんとす雖然其の技幼稚にして殆んど観るに足らざりしが黽勉倦懈あるなく多年苦心惨憺粉骨韲身食品の製作に従事し西川風琴と稱し構造の堅牢優美なると音律の整確なるとの特長を以て江湖の喝采を得二十三年内國勸業博覧會に優等賞牌を得次て第十四回博覧會に進歩優等賞牌を受領し遂に宮内省陸軍省東京音樂學校及び交部省直轄各校の御用を勤め益々其眞價の發露を來し販路擴張發展し普く内國に行はれ更に墺國東洋諸邦へ輸出するに至る然も君が職に熱心誠實なるは採長補短一層斯業に貢献する所あらんとして賢息を米國に遣はされ親しく該技の蘊奥を探究せしめ令息其の意を體して勉勵怠りなかりしかぼエステーピアノ風琴會社より成蹟優等の證明狀を得て歸途諸方を巡視し嶄新精妙の資料を齎らして歸朝せり以来鋭意工場諸般の設備を一新し規模壮大頓に奮觀を改め随って欧米人の間にも令聞噴々たるに至れり斯くして二十年来の素志を貫かれしと雖も改善発達の心は須叟も停まず精進勇猛需要華客の愛顧に酬ゆる所あらんと孜々汲々として業務に精勵しつつありと云ふ」京浜実業家名鑑


現代之横濱

細野薬店 戸部町

細野薬舗
薬店
戸部町1丁目20番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

細野藥店 細野藤右衛門「君は先代より藥舖を營む、他家より入りて家名を襲ひ藥劑師となる、艸樂會幹事にして重に藥種賣藥の小賣を専門として、戸部方面にて其名弘し、」横濱成功名誉鑑


横浜貿易新報

椎野賢三絹織物店 本町

明治時代の横浜本町通りの古絵葉書、椎野賢三商店

椎野賢三商店
絹物加工品貿易商
本町1丁目19番地
椎野賢三は嘉永4年(1851)西松松五郎の長男として浅草に生まれる、のちに椎野定七(利七)の養子となり、明治4年(1871)に家督を継いだようだが、椎野正兵衛の妹と結婚した(S.SHOBEYより)という話もある、定七とは椎野正兵衛の父のことなのか、定七、正兵衛との関係など不明である
賢三の息子に賢三郎(明治12年生)がいるが、賢三の跡は娘シユンの夫である椎野(小野)定(明治8年生)が継いでいる
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

絹物加工品貿易商 椎野賢三「横濱に於ける加工絹物輸出に古き歷史を有せる椎野賢三君は、明治六年墺國維納博覽會事務官に隨行を命ぜられ、墺獨兩國の有名なる絹織物羅紗製造工塲及加工塲等を視察して歸朝し、爾來歐洲輸出の絹織物に就きて研究數年、明治十六年に至り獨立開店せり、嘗て歐洲大陸に於て視察せし要點を斟酌して、我國刺繍に重を置き、輸出を計りし其明や違はず、非常に歓迎せられしも、在来職工の風習類る劣にして動もすれば時機を失するの悔なしとせず、君一計を案出し幼女を養成して職工に當てしに、綴密にして細心なる點優に男工を壓し一革新を與ふるに至れり、君又初二重加工品の原科僅少なるを憂ひ其の生産力を増さんとせしが、常時僅に京都を除きては他に機業地なし、よりて上州の織物仲買人小野里喜左衛門氏と計りて桐生に於て試織せしめ、両三回の検定を経て顔る良成績を収むるを得たり、時に明治十七年八月なりき、それより各地競ふて之れを試織し、ハンカチーフ其他加工品の原料として莫大なる需用あることとなれり、次に甲州特産なる甲斐絹の産額少く其幅狭きを改良して上州に於て織成し輸出を試みしに、是又意外の好況を呈し完全なる輸出品となれり、君は斯の如く絹物輸出に於て多大の功績を有するとともに、自家店舗も年と共に益々盛大に赴き、絹商椎野の名は遠く海外に及びて知らざるものなし、君は東京浅草の人、本年實に五十有九歳、」横浜成功名誉鑑

椎野賢三「欧米各国に我国特産の絹織物を供給して外商間に盛名を博ず戦後の経営頗る斯商者に竢つ亦多大なりとす豈奮勵一番せずして可ならんや」京浜名家総覧職業

murray

Yokohama and Vicinity

横浜家畜病院 霞町

奉祝記念誌
横浜家畜病院
家畜病院
霞町1丁目2番地
木内盛裕院長
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弘明寺 弘明寺町

弘明寺
弘明寺町字山下267番地
寛徳元年(1044年)開山の真言宗の寺で、治承5年(1181)には源頼朝が源家累代の祈願所とした
十一面観音は国の重要文化財に指定されている
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研究 三井得右衛門宛の騎手の写真

写真には二人の騎手が写っている、薄紙には「三井得右衛門様」と記されていて台紙には “Yokohama” と “Fukagawa” の刻印がある

根岸競馬場で優勝した騎手の写真を、三井得右衛門なるものに贈ったものか、あるいは贈ろうとしたものだろうか

三井得右衛門は、明治4年、三井伊皿子家(いさらごけ)の三井高生の次男として誕生し高信と名付けられた
当時、三井家は政府より呉服業越後屋からの撤退を命じられていたため、祖業を継続したい三井家は使用人筆頭に「三越得右衛門」を名乗らせ「三越家」「三越」を設立することで表向きは撤退しつつ事業を継承させていた
明治10年、高信がその名を継ぎ「三越得右衛門」となるが明治25年から26年にかけてその三越を回収し、「三井呉服店」として再出発を図るなかで、「三越得右衛門」は「三井得右衛門」と改姓する
このあたりの経緯は三井文庫(資料館)が詳しい


得右衛門は大の馬好きで、横浜に厩舎を構え、伊庭野次郎を専属騎手としていた、騎手のひとりは伊庭野次郎か
大正3年10月30日、根岸秋季競馬のオーストラリアン・ハンディキャップ・レースでは、得右衛門の所有馬「イヅツ」が伊庭野次郎の騎乗で優勝している


台紙には、筆記体でYokohamaと Fukagawaの文字が空押しされている
横浜の写真館で深川といえば、山下町32番地、ファサリ写真館の深川伊都麿か

とここまで調べたが確かなものは何もない
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

海員追悼碑

海員追悼碑
開港以来、海難に殉じた海員の慰霊の為に明治36年(1903)野毛山不動尊境内に建立した。題字は伊藤博文
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

別所の桜

別所の桜
横浜桜の名所
著名な桜古木だったが、関東大震災で折れて枯れてしまった
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


磯子の菖蒲

磯子菖蒲園
横浜花の名所
明治30年(1897)横浜植木が磯子菖蒲園を開設、花菖蒲は百合に次いで海外で人気があった。明治36年(1903)蒲田に菖蒲園を開設し磯子菖蒲園は閉鎖された。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

横浜電気工業 西平沼町

横浜電気工業
各種電球製造販売
西平沼町88番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「資本金五拾萬圓を以て設立せるものにして電燈球并に電氣器具の製作を目的とし其製作の電燈球は光力強くして好評あり。」現代之横浜

横浜商業会議所

實業之横濱

外谷絹物洋服店 元町


外谷商店 外谷善之助
絹物洋服商
元町3丁目126番地
外谷善之助は明治15年7月、長野県上水内郡三水村に生まれる
明治43年9月16日元町で開業、大正3年に山下町へ移転する
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

黒川製茶商 元浜町

黒川益次郎
製茶海産乾物貿易商
元浜町1丁目13番地 北仲通2丁目29番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


「故黒川益次郎柩」葬列
本村通りから前田橋手前を左折しようとしているところ、
この後、居留地側の堀川沿いを通り、谷戸橋を渡って堀川沿いを戻り増徳院に向かうのか
黒川合資会社は、黒川益次郎氏が亡くなったことにより明治37年1月26日に解散しているので亡くなったのは明治36年の年末から翌年の1月ごろだろうか