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| 神奈川縣案内誌 |
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑
1900-1920 明治〜大正 古絵葉書・古写真・古書籍・古地図より
星野屋絵葉書店 尾上町
星野屋絵葉書店
絵葉書屋
尾上町4丁目61番地
星野屋絵葉書店の店主、吉岡長次郎について
明治13年頃(1880)和歌山県有田郡田殿村字田口に吉岡平右衛門の三男として生まれる
明治14年とする史料もある
明治26年頃(1893)大阪へ出て、呉服店に勤務
明治35年 (1902)呉服店を辞める
明治37年 (1904)尾上町四丁目に星野屋絵葉書店を開業
明治38年 (1905)京浜絵葉書同業組合の設立に参画
大正7年 (1918)羽衣町へ移転
大正12年 (1923)関東大震災により被災、羽衣町復興会などで復興事業に尽力
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑
星野屋繪葉書店 吉岡長次郎「成功の基因は機微にあり、吉岡長次郎君明治三十七年横濱に在り、處用を帯びて上京し、某氏の家を訪ひしに、燦絢たる絵葉書の店頭に陳列さるるを見て心大に動き試に數種を購入して横濱に來り居留外人に輾賣せしに、偶然よく的中して頗る賞賛を博し種々の注文を受けたり、往返數回倏ち買へば忽ちに賣り盡くせり君此處に於て断然意を決して一店舗を設く、是れ則ち現住所にして、時は明治三十七年世は日露の平和將に破れて戰雲將に急ならんとするの秋なりき、廣く内地の風景畫コロタイプ板を収集し、主として観光外人に向て發賣し併せて内地人にも供給し、日に月に益々進捗し、終に今日に至りては市内屈指の店舗となり絵葉書といへば直ちに星野屋と答ふるの盛況を呈し、現に各名勝地に支店あり、京濱絵葉書同業組合幹事として名聲あり、君は和歌山縣の人明治十三年の生なり、」横濱成功名誉鑑
吉岡長次郎氏 羽衣町2ノ25番地 コロタイプ印刷業「 氏は和歌山縣有田郡田殿村字田口、平右衛門氏三男として明治十四年一月二日に生る、明治二十六年少年時の氏は志を立てて、大坂に出で、大呉服店に勤務す、十ヶ年の勤績中、實業界雄飛の志を遂げしむべく、あらゆる努力を致して 研鑽の功を積む、其種類の雑多なる事とて、各種の品目に精進するは客易の業にあらず、刻苦精励、遂に明治三十五年に至り獨立營業を開始し得るに至れり、其年某外人の勧めにより横濱に来り、尾上町四ノ六一に店舗を構へ繪葉書商を創め、業界に先鞭をづけたり、大正八年現住所に移りころタイプ印刷に其の特技を発揮なし、輸出カード、レターペーパー等の印刷に於て名あり、大正八年警衛會を廢し羽衣會を設けるに當り大いに力を致し、町内の信望 は加はれり大震災に遭遇せる力は、直ちに羽衣町復興會の組織に協力、同志の人々と共に毎日役割をなして、灰かき、地ならし等をなし天幕を張りバラックの建設に努力する事約十日間に及び、費用は各自の辨づる處となし、愛町の精神に燃へ、復興の完成を急げり、又其バラック修築の集合にあたり、災後幾許もなき時とて筆紙皆無の狀なりしが、僅かに一紙片を拾ひ辛じて記入し得るの狀なりと、氏の公共的心事以て推知するに足る、更に浴場の設置、三社稻荷社の建設の業をなすに興りて力あり、渡邊市長を初め町内其他の方面よりの感謝状に氏の面目躍如たり、國勢調査罹災民人口調査に委員たる外衛生組合副組合長として衛生其他の施設に貢献、現に羽衣町會副會長たり、夫人テイ子氏との間に六人の息女達あり、中學に小學校に家庭に何れも其將來を囑目せらる。」 横浜市誌
絵葉書製造業 星野屋本店 横濱市尾上町四丁目「同店は横濱に店舗を構へ主として外人向絵葉書を製造販賣す。店主吉岡長次郎氏は、和歌山縣の人、明治十四年を以て生る。明治三十七年横濱に出で某外人より外國にては繪葉書の賣行非常なるを聞き内地にては當時繪葉書製造の絶無なるに思ひ當り、或る繪草紙店にて繪葉書大の繪を買求め之を葉書䑓紙に貼付し、試みに之を横濱居留地の外人に示せしに、頗る好評を博し忽ちに多数の注文を受くるに至れり。是れ氏が斯業を始めしの端緒なりしが、今や業務盛大にして、各地に支店を設け、現に同業者の信用厚く、京濱繪葉書同業組合の幹事、同市尾上會組合幹事たり。」帝国現代縦横史
吉岡長次郎君「君は星野屋繪葉書店にて和歌山の人明治十三年を以て生る明治三十七年横濱に来り商用にて上京し其商店方に繪葉書絢爛人目を驚かせるを見て試みに數種の買入を爲し之れを居留地外人に示せるに好評を博し以ての注文を得たるより君の繪葉書店に投ずるの動機となり断然意を決して明治三十七年現所に開店せり内地の風景名勝地は外國観光圏の喜ふ所となり家運の隆盛に赴くと共に各地に支店を設け同業者の信用厚くして京濱繪葉書同業組合の幹事となり益々業務に精励して常に新趣向を凝らし新流行を促し商才測るべからざるものあり斯業界の明星と目せらる」横浜社会辞彙
氏は明治十三年十月二十四日、和歌山縣有田郡田殿村字田口、吉岡平右衛門氏の三男に生れ、同二十六年幼少の身を以て大阪に出て、某大呉服店に忠實に勤務せられて常に主家に愛せられたが、明治三十五年、主家を辭して獨立開業を開始するに當り、某外人の薦めに依り同年九月、横濱に出て、尾上町四丁目六十一番地へ店舗を設け、現営業を創業して専ら輸出入を盛んに開始せられたのであつた、氏は又繪葉書業の益々発展向上を期する爲にめに明治三十八年、同地伊勢佐々木町に在りし、前のトンボヤ店主、前田徳太郎氏及び東京在住の同業有志者四名と共力して京濱絵葉書業組合(組合の沿革参照)を組織せられた事もある、爾来、業務愈々発展して大正七年八月現營業所に移輾し益々同店獨得の製品を出版し、殊にコロタイプ印刷と輸出向カード、レターペーパー等は古くより信用と多大の好評を持つ商店である。氏は資性、常に誠意を以つて事を處理し、質實にして堅實邊幅を飾らず、公共の爲めにも盡力せられて大正七年迄は尾上町衛生組合役員を、大正十二年九月一日突如として起これる関東地方大震災當時には、横濱市は災害殊に甚だしく多数の罹災者を出したが、氏は自店營業所の全壊焼失せるをも省り見ずして此の多くの不幸なる罹災者の爲めに日夜寝食を忘すれ八方町民の爲めに努力せられて、バラックの建設に、救護事業に活躍せられたので横濱市長 より特に表彰せられ且つ其功に依り木盃一組及感謝状二通を下付せられたのであつた。 また、大正七年あり、大正十四年以来、現に今日に至る迄町内衛生副会長の職にあり、尚大正十四年度挙行の国勢調査委員にも推薦せられて居る人望家で有る
古き歴史を持つ同店は大震災後、暫く京都市九條松ノ木町に假營業所を開いて工場の建築と製品の完備を計つて居られたが先般目出度竣成したので京都を引払ひて歸濱せられた、此際を期し一層の努力奮闘を以つて益々、より良き製品の出版に全力を盡して居るのである。 特に名勝繪葉書の引受け印刷には長年の経験と完全なる同社工場に於て製作せられて居るのであつて期日の正確と製品の優良なる點に於ては他に類なきものとして高評を博して居る。絵画絵葉書類品附属品美術印刷製品仕入大観
妙法寺 屏風浦村
屏風浦村杉田
妙法寺境内には樹齢300年以上の枝垂梅があり「珠簾梅」と呼ばれていたが、明治17年(1884)3月19日に英照皇太后・昭憲皇太后が観梅に訪れた際、元の名前「照水梅」に改名した。
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横浜港より出征する馬
日露戦争のために横浜港から出征させられる馬
日露戦争において兵站、機動力を支えるため多くの馬が動員された
戦闘、疾病、過労などにより亡くなった馬は約38,050頭と記録されている
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑
杉田の梅
横浜花の名所
平地が狭く、地質も穀類の生育に適さなかった杉田の地に、天正年間 (1573〜1592)の領主間宮信繁が梅を植樹させたのが杉田梅林の始まりで、元禄の頃(1688〜1704)には梅の名所となり最盛期には36,000本の梅樹を数えた。文化年間(1804〜1818)に出版された佐藤一斎の「杉田村観梅記」、清水浜臣の「杉田日記」により観梅の地として名声を得、明治17・19年(1884・1886)には英照皇太后と昭憲皇太后が妙法寺を訪れるなど明治初期までは梅の名所として名高かった。明治20年代に入ると塩害や老衰などで急速に梅樹が減少し始め、戦後には宅地造成によりその地を奪われ今は妙法寺周辺で僅かに数十株を見るだけである。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑
「八幡橋電車停留場よりは一里弱。海濱に沿ふて行くを以て風景甚だ佳。屏風ヶ浦を過ぎ白雲の匍ふと見ゆるは梅林なり。臨海の一丘に登り下瞰すれば神気一輾仙境の人。『よそにのみ杉田の梅の花盛り嬉しく逢へる今年なりけり』の濱臣の歌あり。」横浜遊覧商業案内 t.2
榊原綿店 宮川町
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| 實業之横濱 |
榊原綿店
綿販売
宮川町3丁目43番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑
機械打綿業の鼻祖 榊原常吉「明治七年三河國額田郡藤川村に生れ、三十三年横濱の大火に膺り、新事業の好望を見越して徒手空拳出濱したる榊原常吉君は、橫濱に於ける機械打綿業者の始祖として重んぜらる、君年弱冠郷里に在り、綿絲及木綿織立業を營み、後ち打綿業の有利なるに着眼し、九州より打綿機を購求して業を替へしが是れ三州打綿機の嚆矢にして、爾來改良を加ふる事幾度、以て今日に及ぶと云ふ、君當初高島町に創て機械を据ゆる僅かに一臺、漸次盛大に赴き三十四年東京四ツ谷に同三十九年當市南吉田町に各工塲を設置し、更に四十年に至り英國製機械數臺を購入して大發展大改良を圖れり、現時三工塲を通じて英國製機械五臺改良三州機械十三臺、一日の生産力約六百二十貫目に上ると云ふ、洵に異數の成功なり、君勤勉忠實常に器械の改良、製品の改善に焦慮し、其の發明になる伸綿切断機、切断機及打綿機(二種)の四種は專賣特許を得たり、又其の製造に係る靑梅綿は品質佳良にして遍ねく賞讚を博しつゝあり、」横濱成功名誉鑑
西川オルガンピアノ製造所 日ノ出町
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| 神奈川縣案内誌 |
西川オルガンピアノ製造所
西洋楽器製造
日ノ出町2丁目29、30番地
(841)
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西川虎吉「其音律の正確に於て其値段の低廉に於て優に舶来品を凌駕する者は本舗の風琴なりとす学校教會堂の注文常に絶へざると云ふ」京浜名家総覧職業
洋琴風琴製造元祖 西川虎吉「西洋樂器の高價にして洽く需め得ざるを憤慨し、獨人力エルノ及び英人クレーン二氏に就き、研究數年、終に良結果を奏したる西川虎吉君は、千葉縣の人にして《嘉永三年生》幼より三味線の職工となり、年壯なる頃已に天下の名匠を以て評せらる、君の洋琴に志を傾けしは遠く明治九年の頃にして、漸く十三年に至り工塲を設置し製造を創めたり、此閒の苦辛慘澹實に言語に絶す、親戚知己は皆その策の誤てるを愁訴するも頑として應ぜず、萬難を排して終によく堅牢なろ樂器を製造し、音律正調構造雅美優に舶來品を凌駕し、却て海外に向て輸出するの盛況を呈せるは、唯り君一己の名譽に留まらざる也、蓋し本邦に於ける洋樂器製造の鼻祖とす、されば内外博覽會に於て數回の賞牌を受け、宮廷御用は勿論、東京音樂學校、陸海軍々樂隊の如きも君の製品を採用せり、先年愛息安造君を米國に渡航せしめ、實修數年悉く淇薀奧を極め、大に製品の改良を圖れり、四十二年馬車道通りに販賣店を設けて更に業務を擴張す、又自家製品の外獨逸製ヴァイオリン及附屬品等をも直輸入して顧客の需めに應ず、現今日本第一の樂器製造所として内外人の賞讃措かざる所なり、」横濱成功名誉鑑
西川虎吉 日ノ出町2丁目28番地「我國風琴製造界の覇者として元祖として盛名ある西川虎吉君は實に嘉永二年七月を以て千葉縣君津郡周南村に生る伊藤德右衛門氏の三男なり家は代々農を以て業とす拾五歳出でて奉公せり其頃より既に楽器に對する嗜好は涵養せられたり甘一歳にして三味線製造に従事し地を横濱に撰ぶ時に明治九年なり翌年英國人クレン氏に就き將來洋楽の我國に流行せんことを想ひ風琴製造業を創めたりが微々として振はず多くは修繕に止まり十五年三味線の業を廃し専ら斯業に従事せしが氣運の洋楽に傾かんとするを見内は顧客の需用を満たし外は泰西輸入品を制肘せんとす雖然其の技幼稚にして殆んど観るに足らざりしが黽勉倦懈あるなく多年苦心惨憺粉骨韲身食品の製作に従事し西川風琴と稱し構造の堅牢優美なると音律の整確なるとの特長を以て江湖の喝采を得二十三年内國勸業博覧會に優等賞牌を得次て第十四回博覧會に進歩優等賞牌を受領し遂に宮内省陸軍省東京音樂學校及び交部省直轄各校の御用を勤め益々其眞價の發露を來し販路擴張發展し普く内國に行はれ更に墺國東洋諸邦へ輸出するに至る然も君が職に熱心誠實なるは採長補短一層斯業に貢献する所あらんとして賢息を米國に遣はされ親しく該技の蘊奥を探究せしめ令息其の意を體して勉勵怠りなかりしかぼエステーピアノ風琴會社より成蹟優等の證明狀を得て歸途諸方を巡視し嶄新精妙の資料を齎らして歸朝せり以来鋭意工場諸般の設備を一新し規模壮大頓に奮觀を改め随って欧米人の間にも令聞噴々たるに至れり斯くして二十年来の素志を貫かれしと雖も改善発達の心は須叟も停まず精進勇猛需要華客の愛顧に酬ゆる所あらんと孜々汲々として業務に精勵しつつありと云ふ」京浜実業家名鑑
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| 現代之横濱 |
細野薬店 戸部町
椎野賢三絹織物店 本町
椎野賢三商店
絹物加工品貿易商
本町1丁目19番地
椎野賢三は嘉永4年(1851)西松松五郎の長男として浅草に生まれる、のちに椎野定七(利七)の養子となり、明治4年(1871)に家督を継いだようだが、椎野正兵衛の妹と結婚した(S.SHOBEYより)という話もある、定七とは椎野正兵衛の父のことなのか、定七、正兵衛との関係など不明である
賢三の息子に賢三郎(明治12年生)がいるが、賢三の跡は娘シユンの夫である椎野(小野)定(明治8年生)が継いでいる
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑
絹物加工品貿易商 椎野賢三「横濱に於ける加工絹物輸出に古き歷史を有せる椎野賢三君は、明治六年墺國維納博覽會事務官に隨行を命ぜられ、墺獨兩國の有名なる絹織物羅紗製造工塲及加工塲等を視察して歸朝し、爾來歐洲輸出の絹織物に就きて研究數年、明治十六年に至り獨立開店せり、嘗て歐洲大陸に於て視察せし要點を斟酌して、我國刺繍に重を置き、輸出を計りし其明や違はず、非常に歓迎せられしも、在来職工の風習類る陋劣にして動もすれば時機を失するの悔なしとせず、君一計を案出し幼女を養成して職工に當てしに、綴密にして細心なる點優に男工を壓し一革新を與ふるに至れり、君又初二重加工品の原科僅少なるを憂ひ其の生産力を増さんとせしが、常時僅に京都を除きては他に機業地なし、よりて上州の織物仲買人小野里喜左衛門氏と計りて桐生に於て試織せしめ、両三回の検定を経て顔る良成績を収むるを得たり、時に明治十七年八月なりき、それより各地競ふて之れを試織し、ハンカチーフ其他加工品の原料として莫大なる需用あることとなれり、次に甲州特産なる甲斐絹の産額少く其幅狭きを改良して上州に於て織成し輸出を試みしに、是又意外の好況を呈し完全なる輸出品となれり、君は斯の如く絹物輸出に於て多大の功績を有するとともに、自家店舗も年と共に益々盛大に赴き、絹商椎野の名は遠く海外に及びて知らざるものなし、君は東京浅草の人、本年實に五十有九歳、」横浜成功名誉鑑
椎野賢三「欧米各国に我国特産の絹織物を供給して外商間に盛名を博ず戦後の経営頗る斯商者に竢つ亦多大なりとす豈奮勵一番せずして可ならんや」京浜名家総覧職業
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| murray |
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| Yokohama and Vicinity |
清正公堂 長者町
清正公堂
長者町8丁目83番地
栄玉山常清寺の境内にあり清正公堂と呼ばれた。常清寺は日蓮宗身延山久遠寺の末寺で永宝4年(1676)吉田勘兵衛が日脱上人を勧進して開山した。常清寺は吉田家のみの菩提寺であったため寺の護持が厳しく一般参拝者を集めるために熊本の妙法寺より清正公を遷座した。
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弘明寺 弘明寺町
弘明寺
弘明寺町字山下267番地
寛徳元年(1044年)開山の真言宗の寺で、治承5年(1181)には源頼朝が源家累代の祈願所とした
十一面観音は国の重要文化財に指定されている
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研究 三井得右衛門宛の騎手の写真
三井得右衛門とはどのような人物なのか、
三井得右衛門は、明治4年、三井伊皿子家(いさらごけ)の三井高生の次男として誕生し高信と名付けられた。当時、三井家は政府より呉服業越後屋からの撤退を命じられていたため、使用人筆頭に「三越得右衛門」を名乗らせることで、表向き「三井家」は撤退しつつ事業を継承させていた。
明治10年になると使用人筆頭ではなく、高信がその名を継ぎ「三越得右衛門」となる、さらに明治25年から26年にかけて、「三井呉服店」として再出発を図るため、「三越」を回収し、「三越得右衛門」は「三井得右衛門」へ改姓する
このあたりの経緯は三井文庫(資料館)が詳しい
得右衛門は大の馬好きで、横浜に厩舎を構え、伊庭野次郎を専属騎手としていた、騎手のひとりは伊庭野次郎か
大正3年10月30日、根岸秋季競馬のオーストラリアン・ハンディキャップ・レースでは、得右衛門の所有馬「イヅツ」が伊庭野次郎の騎乗で優勝している
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