ファルサーリ写真商会 山下町

ファルサーリ商会
写真館
山下町32番
看板にわずかに見えるFarの文字、アドルフォ・ファルサーリの写真館であろう
明治16年(1883)サージェントファルサーリを設立、明治18年(1885)にファルサーリ商会に改称した
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


Yokohama and Vicinity

FAJIYAMA絵葉書商会 山下町

FUJIYAMA商会
絵葉書店
山下町34番地
横浜開港資料館編「100年前の横浜・神奈川」ではファルサーリ商会としているが、FUJIYAMA商会の誤り
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

改築前の吉田橋

改築前の鉄の橋、吉田橋
解体のための足場が組まれた鉄の橋最後の姿
明治44年、鉄の橋は交通量の増加、老朽化もありコンクリート橋へ架け替えられる
関内側から伊勢佐木町方面を望んだ景色、正面の建物は伊勢佐木町警察署
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高橋唐物店 賑町


高橋半七
唐物古着
賑町1丁目2番地
伊勢佐木町通り、右手前が唐物古着の高橋半七商店、隣に賑座、賑座の向かいが喜楽座
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

弥八ヶ谷戸

弥八ヶ谷戸
吉田新田の埋立と根岸を結ぶ舟運のために堀割川が造られた
その最大の難所がこの弥八ヶ谷戸の切り下げ工事だった
さて、この写真は根岸側から撮ったものなのか、中村川から撮ったものなのか
根岸側からの説があるが、川の曲がりや川面に映る影を見ると中村川側からのようにも感じる
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震災後の地蔵坂付近と商店

震災後の地蔵坂付近

伊澤兄弟商会
山下町187番地

小原商店
石川仲町4丁目91番地

甲子ビル
山下町82番地

長嶋商店
山下町187番地

斉藤洋傘店

ボストンバー
山下町151番地

田中保次郎商店
松影町1丁目16番地

後藤造花店
元町3丁目121番地

田澤商店
元町3丁目121番地

茨木洋服染洗店
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市川国松食品商 山下町

市川國松
洋酒類食料品並ニ小間物商
山下町97番地
(854)
市川国松は山下町恤兵会である救護会の発起人で店舗は日露戦争時の横浜奨兵義会恤兵寄付金取扱所をになっていた
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市川國松 山下町97番地「艱難人を玉にすとは古来幾度か繰り返へされし俚諺なれど余は君の一生に於て其の真理を具體的に認識するを得たるを喜ぶ君は嘉永六年二月静岡縣庵原郡奥衛町に生る父を小衛門氏と云ひ世々農及び商を兼ね營む君は其の五男なり六歳にして父を喪ひ母手に依りて養育せられ不幸不如意の裡に初等教育を了し明治二年横濱に出で元町一丁目に洋品食料及び洋酒店を営める實兄幸兵衛氏を訪づれ入りて同業を見習其の間少なからざる辛酸を嘗めと雖も拮据勉勵惓むことなく畧ば業務の一般に通通暁するを得たりし頃不幸にして兄幸兵衛氏二豎に冒され遂に歸國するの巳む能はざるに至りしかば君は其の後を繼續して益々業務に勉勵し家運愈々隆盛に赴きしが明治八年同市に大火ありて君が亦類焼し莫大の損害を蒙りしが君の勤勉と信用とは直ちに同所に以前の営業を開始するを得せしめたり翌年現所に轉宅して益々業務の繁榮を圖りたりしが同年再び同所に火ありて全焼の災厄に罹りしかば困難又困難殆んど再び起つ能はざるに至らんとせり然れども天は自ら助くる者を助くと勤勉に亞ぐに勤勉を以てし忍耐に亜ぐに忍耐を以てせしかば其の勤勞空しからず三たび同所に一大洋酒店を開業するを得るに至れり茲に於て君は寝食を忘れて業務に盡瘁し刻苦勉勵一身を家運の開發に捧げて数十年來一日も惓むことなかりしかば大に世間の信用を博し店運益々隆盛に赴き今は市内有数の大商家となるに至れり君又嘗て同市南京町に本邦人の籍を置く者僅かに二十七名に過ぎざるを憂ひ町内親睦會なるものを設けて一面町民の交誼を厚ふ傍ら實業の発達に資し廿三年より卅九年まで其の會長を勤め又明治卅五年同市商業會議所議員に撰ばれ今猶其の職に在り」京浜実業家名鑑


貿易新報

AH LONG & CO.洋服店


AH LONG & CO.
洋服店
山下町35番地
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Yokohama and Vicinity

横浜市長公舎 月岡町

横浜市長公舎
月岡町
市長公舎の情報はあまりない
・1906年 新市長公舎新築案可決
・1908年 2月26日、三橋市長、新市長公舎に転居
・1913年 市長公舎修繕費の計上が最後、以後計上無し
・1918年 なくなった市長公舎を新たに建設する建議案が可決された
・1922年 老松町1丁目11番地(職業別電話名簿 東京・横浜 11版)

整理すると
明治40年から震災までには2代の市長公舎が存在していたか
①1907〜13年の市長公舎(月岡町?)
②1919〜23年の市長公舎(老松町)
写真は①の市長公舎か
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地蔵坂

鈴木順平氏の葬列
日露戦争で戦死した鈴木順平氏の葬列、地蔵坂から西有寺に向かうところ
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「南山戰死の勇士、 齡二十五、 横濱の人、横濱商業學校を卒へて三十三年一年志願兵となり除隊後同市山下町ウヰンクレル商會及ストローム商會に勤務せり、剛毅にして大志あり出征に臨むて決する所あり知己に家族を托して唯だ謂へらく「生還は期せず」と。」日露戦争実記

「君は明治十三年十二月横濱市宮崎町に生れ、老松小學校高等全科卒業、卅三年三月橫濱商業學校全科卒業、卅三年十二月一年志願兵として近衛師圏へ入管 卅四年十二月滿期除隊 同月任軍曹、卅六年三月任少尉、六月敘正八位、卅七年三月豫備役として應召四月一日宇品港出帆、全廿五日韓國南浦へ上陸五月廿七日金州山の激戦に際し敵彈胸部及頭部其他数ヶ所へ命中し爲めに戦死す、墓は相澤西有寺にあり」横浜市民之声

ジャーマンクラブ 山下町

クラブ ゲルマニア
山下町173番地
ドイツ人を中心とする社交クラブとして、文久3年(1863)に横浜居留地161番地に設立された。明治2年(1869)には居留地173番地に新築移転、バーやビリヤードルーム、ボーリングルーム、図書室など設備も備えていた。
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富士瓦斯紡績 保土ヶ谷町

富士瓦斯紡績 保土ヶ谷工場
瓦斯紡績
保土ヶ谷町帷子985番地
明治43年(1910)1月から操業開始した。同年4月2日、県知事他百名を工場に招待し工場案内と午餐会が催された。翌3日(日曜日)も同じように工場見学が催されたのであろう、絵葉書に記念印が押されている。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

富士瓦斯紡績株式會社程ヶ谷工場「我國瓦斯紡績業中第一の大會社として知られたるを富士瓦斯紡績會社とす本社は東京府下大島村に在り先年保土ヶ谷町なる日本絹綿紡績會社を買收して分工場となし大に規模を擴張し男女工一萬餘人を使役し絕えず製造に從事しつつあり、同社は今回又々分工場を川崎町に設く規模保土ヶ谷に讓らざる大工場にして本年中に運轉を開始する 由以て同社の盛運を卜するに足る。」現代之横浜

富士瓦斯紡績株式會社保土ヶ谷工塲 「保土ヶ谷町帷子九百八十五番地に在り明治三十六年に於て絹絲紡績事業を營み來れる日本絹綿紡績會社を買收し事業擴張の方針定まるや技師を歐米に派遣し工費三百萬圓を投じて新工場の建設に着手し明治四十三年竣工す其後數回に涉りて工場を増築し又小山第二工場を移せり敷地六萬坪職工は女工四千五百人男工一千五百人にて精紡機六萬二千四十錘製紡機百三十臺織機二百八十臺全額製產高 一ヶ年約一千萬圓にて絹綿は內地及び歐米印度方面に輸出し紬絲は內地の外歐洲に輸出されペニーは佛英瑞の諸國に珍重され富士絹は濠洲及び英國に輸出す黑姻濛々として龍蛇の天に沖するが如く晝夜を別たす職工は晝夜の兩部に分れて業務に従事し縣下第一の大工場なり特に當會社の特色として職工の爲め衞生設備 幸編增進、慰安會等を組織して幼兒預所哺乳所食堂病院寄宿舍娛樂所學校裁縫購買組合等總て他の模範となるべきものにて工場醫士六人藥劑士一人看護婦十二人あり又社宅二百戶は西谷舊日本絹綿紡績會社工場內に在りて共同沿場慰安所娛樂所內職場等完全の設備を爲せり而して工場長は朝倉每人君次長荒木團藏君技師長後藤正嶷君同次長渡邊幾之助君なり」横浜社会辞彙








横浜市商工案内

西村旅館本店 弁天通

西村旅館
旅館
弁天通6丁目110番地
(1248)
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西村旅館 赤川與左衛門「回漕業を兼ね旅人の便宜を計る有數なる旅宿なり其取扱の丁寧と設備の完全とは兩々相竢て投宿者の多きを占むるの素因ならんか」京浜名家総覧職業


神奈川縣案内


本牧花屋敷 本牧町

本牧花屋敷
本牧町
本牧花屋敷は活動写真館、ミニ動物園、菊花壇を設置した娯楽施設で大正元年(1912)10月に開園、大正3年に海水浴場を開設した
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神奈川縣案内誌