伊勢屋陶器店 初音町

伊勢屋 関野金蔵
陶器販売
初音町2丁目
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

戸部貯蓄銀行太田支店 日ノ出町

戸部貯蓄銀行 太田支店
銀行
日ノ出町3丁目82番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

萩原写真館 日ノ出町

萩原写真館
写真館
日ノ出町3丁目70番地
萩原捨次郎
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

「君は三重県の人明治二十年来港して鈴木真一氏に就き写真術を研究し後獨立して現在の處に開業す君資性温良公共の志篤く業務に熱心にして今日の旺盛を致せり」現代之横浜

根津自転車店 相生町

横浜貿易新報
根津自輾車店
自転車商
相生町1丁目3番地
日ノ出町1丁目3番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

自輾車商 根津酒造蔵「英國製自轉車ストレート號の特約店根津商店主酒造藏君は、先天的商人たるの性格を具へし人なり年十二にして不幸父を失い、十五歳の時早くも煙草小賣商を營み、益々興味を感じて終には卸賣をもなすに至りしが、少年商人としては餘まりに過ぎたる損失を蒙むりしかば、君は翻然其徑路の誤まれるを自覚し、明治二十九年に至り煙草商を抛ちて自轉車業を開始せり、時恰も日清戰役後にありて我實業界は甚しく膨脹を来さんとする時機に遭遇し、迅速にして且快便なる自轉車は平民的實用車として最適當なるは言を俟たず、されどその高價にして汎く供給し難きは遺憾とする所なり、君は茲に於て最も堅牢にして軽快なるストレート自轉車を英國より輸入し賃貸を試みしに、其目的違はず、店頭の顧客螻蟻の甘きに就くが如く纉々として絶へず、此に於て更に販賣及修繕部を擴張し、爾来今日に至るまで益々盛況 を増進せり、君性敏捷商才に富み、加ふるに令閨亦賢にして、能く良人を助けて内政を整理し後顧の憂なからしむ、蓋し君の至幸なり、君は明治十年の生れにして本年三十三歳、現に相生町組合の副會長に推されて公共方面に盡瘁せり」横浜成功名誉鑑

神奈川県銀行会社実業家名鑑

榊原綿店 宮川町

實業之横濱
榊原綿店
綿販売
宮川町3丁目43番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

機械打綿業の鼻祖 榊原常吉「明治七年三河國額田郡藤川村に生れ、三十三年横濱の大火に膺り、新事業の好望を見越して徒手空拳出濱したる榊原常吉君は、橫濱に於ける機械打綿業者の始祖として重んぜらる、君年弱冠郷里に在り、綿絲及木綿織立業を營み、後ち打綿業の有利なるに着眼し、九州より打綿機を購求して業を替へしが是れ三州打綿機の嚆矢にして、爾來改良を加ふる事幾度、以て今日に及ぶと云ふ、君當初高島町に創て機械を据ゆる僅かに一臺、漸次盛大に赴き三十四年東京四ツ谷に同三十九年當市南吉田町に各工塲を設置し、更に四十年に至り英國製機械數臺を購入して大發展大改良を圖れり、現時三工塲を通じて英國製機械五臺改良三州機械十三臺、一日の生産力約六百二十貫目に上ると云ふ、洵に異數の成功なり、君勤勉忠實常に器械の改良、製品の改善に焦慮し、其の發明になる伸綿切断機、切断機及打綿機(二種)の四種は專賣特許を得たり、又其の製造に係る靑梅綿は品質佳良にして遍ねく賞讚を博しつゝあり、」横濱成功名誉鑑

横浜冷蔵庫 宮川町

横浜冷蔵庫
帝国冷蔵株式会社
宮川町2丁目30番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

帝国冷蔵株式會社の一工場たり製氷並に販賣を業とせり近来衛生の発達と共に需要を喚起し夏期の飲料に用ふるのみならず醫療に用ゐられ又食料品の冷却腐敗防止の爲めに用いらるるより四季の需要絶へず従つて事業年々発達を爲しつつあり、同社の主任を鈴川和彦氏と云ひ精励事務に當り今や同社は横濱製氷界の覇王たり。現代之横浜

森寅乾物店 初音町

森寅鰹節店
乾物
初音町1丁目12番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

森寅乾物店 森貞次郎「新派俳優森三之助氏を出せし森寅乾物店は初音町に有名なる商店なり、初祖森寅吉君は千葉縣の人、明治初年常市に来り、初め初音町二丁目にて魚商を営みしが、後に鰹節砂糖乾物等の販賣に轉じ、同町一丁目角に新築移轉せり、商業は次第に繁盛に赴き太田方面にて有數の大舗となれり、廿四年區會議員に推選され學校新築等に關して大に盡力 せり、卅七八年職役の際には少なからざる金品を献納せられたり、君は四十一年十一月六十八の高齢を以て歿せられぬ、長子三之助氏は俳優界にあるを以て、次男貞次郎君家業を繼續して卸小賣共大出精を爲し益々業務を擴張されつゝあり、」横浜成功名誉鑑

松かぶ庵 日ノ出町

松かぶ
手打蕎麦
日ノ出町3丁目68番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

松かぶ庵 吉岡久吉「太田道灌鎧掛の松は有名なる名所で開港後は福井藩の陣屋となり、又兵學教習所となりて陣屋の原の字を存した、中に一株の古松蟠龍の如く、一朶の大枝垂れて地下に達せしが、惜哉明治初年何者かの悪戯で危くも焼失した、明治四年の頃此の名松の消えたるを惜みて松蕪菴といへる蕎麥屋を作りし風流家がある、則ち初代利兵衛翁で、瀟洒たる亭榭を繞らすに竹木の栽込砌石の按排を以て數寄を凝らした、現代久吉君は更らに二階造の座敷を増設し、雨を聴くに宜しく月を賞するに適し、加ふるに手打蕎麦の雅味は以前に優り、手輕料理も初めしかば雅客の筇を曳くもの絶ゆるときがない風流なる古名将が颯爽たる面貌は千古の翠に偲ばれしに、今は手打の松蕪によりて、連纉として感慨の長く傳はれるは奇しき因縁といはねばならぬ俳仙の横濱名物時に曰く」 横浜成功名誉鑑 

西川オルガンピアノ製造所 日ノ出町

神奈川縣案内誌
西川オルガンピアノ製造所
西洋楽器製造
日ノ出町2丁目29、30番地
(841)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

西川虎吉「其音律の正確に於て其値段の低廉に於て優に舶来品を凌駕する者は本舗の風琴なりとす学校教會堂の注文常に絶へざると云ふ」京浜名家総覧職業

洋琴風琴製造元祖 西川虎吉「西洋樂器の高價にして洽く需め得ざるを憤慨し、獨人力エルノ及び英人クレーン二氏に就き、研究數年、終に良結果を奏したる西川虎吉君は、千葉縣の人にして《嘉永三年生》幼より三味線の職工となり、年壯なる頃已に天下の名匠を以て評せらる、君の洋琴に志を傾けしは遠く明治九年の頃にして、漸く十三年に至り工塲を設置し製造を創めたり、此閒の苦辛慘澹實に言語に絶す、親戚知己は皆その策の誤てるを愁訴するも頑として應ぜず、萬難を排して終によく堅牢なろ樂器を製造し、音律正調構造雅美優に舶來品を凌駕し、却て海外に向て輸出するの盛況を呈せるは、唯り君一己の名譽に留まらざる也、蓋し本邦に於ける洋樂器製造の鼻祖とす、されば内外博覽會に於て數回の賞牌を受け、宮廷御用は勿論、東京音樂學校、陸海軍々樂隊の如きも君の製品を採用せり、先年愛息安造君を米國に渡航せしめ、實修數年悉く淇薀奧を極め、大に製品の改良を圖れり、四十二年馬車道通りに販賣店を設けて更に業務を擴張す、又自家製品の外獨逸製ヴァイオリン及附屬品等をも直輸入して顧客の需めに應ず、現今日本第一の樂器製造所として内外人の賞讃措かざる所なり、」横濱成功名誉鑑

西川虎吉 日ノ出町2丁目28番地「我國風琴製造界の覇者として元祖として盛名ある西川虎吉君は實に嘉永二年七月を以て千葉縣君津郡周南村に生る伊藤德右衛門氏の三男なり家は代々農を以て業とす拾五歳出でて奉公せり其頃より既に楽器に對する嗜好は涵養せられたり甘一歳にして三味線製造に従事し地を横濱に撰ぶ時に明治九年なり翌年英國人クレン氏に就き將來洋楽の我國に流行せんことを想ひ風琴製造業を創めたりが微々として振はず多くは修繕に止まり十五年三味線の業を廃し専ら斯業に従事せしが氣運の洋楽に傾かんとするを見内は顧客の需用を満たし外は泰西輸入品を制肘せんとす雖然其の技幼稚にして殆んど観るに足らざりしが黽勉倦懈あるなく多年苦心惨憺粉骨韲身食品の製作に従事し西川風琴と稱し構造の堅牢優美なると音律の整確なるとの特長を以て江湖の喝采を得二十三年内國勸業博覧會に優等賞牌を得次て第十四回博覧會に進歩優等賞牌を受領し遂に宮内省陸軍省東京音樂學校及び交部省直轄各校の御用を勤め益々其眞價の發露を來し販路擴張發展し普く内國に行はれ更に墺國東洋諸邦へ輸出するに至る然も君が職に熱心誠實なるは採長補短一層斯業に貢献する所あらんとして賢息を米國に遣はされ親しく該技の蘊奥を探究せしめ令息其の意を體して勉勵怠りなかりしかぼエステーピアノ風琴會社より成蹟優等の證明狀を得て歸途諸方を巡視し嶄新精妙の資料を齎らして歸朝せり以来鋭意工場諸般の設備を一新し規模壮大頓に奮觀を改め随って欧米人の間にも令聞噴々たるに至れり斯くして二十年来の素志を貫かれしと雖も改善発達の心は須叟も停まず精進勇猛需要華客の愛顧に酬ゆる所あらんと孜々汲々として業務に精勵しつつありと云ふ」京浜実業家名鑑


現代之横濱

鏑木シャツ商店 南太田町

鏑木商店
ホワイトシャツ製造
南太田町2202番地
(2108)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

鏑木商店 兜印ホワイトシャツの特得の妙は、一枚で二枚分使用堪ゆ耐久を以て専売特許れたある實際其呼出しばかりなく一度使用人は決して製造用ゐざるを以て知ること出来る故に到る處舶来小間物商標ざることなきまで發展驚くべ成功なら鏑木石太田丁目藤田商店在勤シャッ有望なる看破し、舶来防遏するあらざるもの考へから年間店務餘暇研究結果明治廿開業するなっ廉價裁縫親切なる巧み新聞廣告新機軸出したるにより鹽満韓地方及びまで販路を広目下職工日夜 繁忙を極めれるない横浜成功名誉鑑

細野薬店 戸部町

細野薬舗
薬店
戸部町1丁目20番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

細野藥店 細野藤右衛門「君は先代より藥舖を營む、他家より入りて家名を襲ひ藥劑師となる、艸樂會幹事にして重に藥種賣藥の小賣を専門として、戸部方面にて其名弘し、」横濱成功名誉鑑


横浜貿易新報

椎野賢三絹織物店 本町


椎野賢三商店
絹物加工品貿易商
本町1丁目19番地
椎野賢三は嘉永4年(1851)西松松五郎の長男として浅草に生まれる、のちに椎野定七(利七)の養子となり、明治4年(1871)に家督を継いだようだが、椎野正兵衛の妹と結婚した(S.SHOBEYより)という話もある、定七とは椎野正兵衛の父のことなのか、定七、正兵衛との関係など不明である
賢三の息子に賢三郎(明治12年生)がいるが、賢三の跡は娘シユンの夫である椎野(小野)定(明治8年生)が継いでいる
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

絹物加工品貿易商 椎野賢三「横濱に於ける加工絹物輸出に古き歷史を有せる椎野賢三君は、明治六年墺國維納博覽會事務官に隨行を命ぜられ、墺獨兩國の有名なる絹織物羅紗製造工塲及加工塲等を視察して歸朝し、爾來歐洲輸出の絹織物に就きて研究數年、明治十六年に至り獨立開店せり、嘗て歐洲大陸に於て視察せし要點を斟酌して、我國刺繍に重を置き、輸出を計りし其明や違はず、非常に歓迎せられしも、在来職工の風習類る劣にして動もすれば時機を失するの悔なしとせず、君一計を案出し幼女を養成して職工に當てしに、綴密にして細心なる點優に男工を壓し一革新を與ふるに至れり、君又初二重加工品の原科僅少なるを憂ひ其の生産力を増さんとせしが、常時僅に京都を除きては他に機業地なし、よりて上州の織物仲買人小野里喜左衛門氏と計りて桐生に於て試織せしめ、両三回の検定を経て顔る良成績を収むるを得たり、時に明治十七年八月なりき、それより各地競ふて之れを試織し、ハンカチーフ其他加工品の原料として莫大なる需用あることとなれり、次に甲州特産なる甲斐絹の産額少く其幅狭きを改良して上州に於て織成し輸出を試みしに、是又意外の好況を呈し完全なる輸出品となれり、君は斯の如く絹物輸出に於て多大の功績を有するとともに、自家店舗も年と共に益々盛大に赴き、絹商椎野の名は遠く海外に及びて知らざるものなし、君は東京浅草の人、本年實に五十有九歳、」横浜成功名誉鑑

椎野賢三「欧米各国に我国特産の絹織物を供給して外商間に盛名を博ず戦後の経営頗る斯商者に竢つ亦多大なりとす豈奮勵一番せずして可ならんや」京浜名家総覧職業

murray

Yokohama and Vicinity

篠崎歯科医院 初音町

篠崎歯科医院
歯科医院
初音町1丁目1番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

宮崎染色工場 初音町

實業之横濱
宮崎竹治郎
輸出羽二重染色業
初音町4丁目34番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

犀川額縁店 霞町

犀川久次郎
額縁製造販売
霞町1丁目6番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

横浜家畜病院 霞町

奉祝記念誌
横浜家畜病院
家畜病院
霞町1丁目2番地
木内盛裕院長
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


初貝診療所 初音町

初貝診療所 
初貝健三郎、健次郎
診療所
初音町1丁目7番地
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑