山手居留地

山手居留地
山手居留地より南側本牧方面海を望む、ワシン坂方面
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

山手居留地

山手居留地
山手居留地より横浜港を望む、左手奥がイギリス海軍病院、港の見える丘公園あたりか
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「横浜外国人居留地」によると241番地からの撮影

鶴見駅

鶴見停車場
鶴見
明治5年(1872)5月15日に開業した
開業当初は東口だけだったので、手前横浜側から品川方面を望んだ景色か
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貞喜丸汽船太田回漕店 港町

貞喜丸汽船 太田回漕店
港町5丁目26番地
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「横浜横須賀間の定期航路を為し旅客貨物の輸送を為しつつありしこと竝に二十年然るに大正二年振込資本金貳万五千円を以て株式組織として漸く一年になるに積立金四百円を有し年一割を配当せり社長は太田平次郎氏外取締役監査役二人なり。」現代之横浜

太田回漕店 太田貞一「君は江戸の人太田平次郎氏の長男にして、天保四年十一月を以て生る、家督を三男貞次郎氏に譲りて、前名貞次郎を今の名に改め回漕業を營む、横須賀通ひ貞喜丸は其便利にして輕快なるは人の認むる處、兩横間交通の機關として貢献する所多大なり、君叉別に太田鐵工所を有し、船舶及び諸機械の修繕及製造に從事す、横濱中央銀行及横濱中央貯蓄銀行の取締役として令名あり、」横濱成功名誉鑑

瀬谷銀行 鎌倉郡瀬谷村

瀬谷銀行
鎌倉郡瀬谷村瀬谷6547番地
瀬谷村の小島政五郎を中心に明治40年5月23日設立、本店は小島邸に置かれた
小島政五郎は相模鉄道の初代社長
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解析 大観艦式当日の横浜町会所の時計

キャプションに大観艦式当日横浜本町通の真景とある
観艦式は明治38年(1905)と大正元年(1912)に開催されている
さてどちらであろうか

下の写真を見ていただきたい
これは日露戦争の勝利を祝う景色
おそらく明治37年(1904)9月5日の遼陽占領を祝う光景であろう

2つの写真の雰囲気は近いので、明治38年(1905)の観艦式が有力か

ただ、もう一度写真をよく見てほしい、
横浜会館の時計が無いことに気づいただろうか
横浜会館は明治39年(1906)に焼失しているので
明治39年の焼失で時計が無くなった後の大正元年の観艦式ではないだろうか


整理すると下記のようになる
明治37年(1904)9月5日 遼陽占領
明治38年(1905)10月23日 大観艦式
明治39年(1906)12月 横浜会館焼失
大正元年(1912)11月12日 大観艦式

時系列を整理すると大正元年の観艦式なのだが
ただ、どう見ても写真の雰囲気は明治38年の観艦式と思うのだが
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南北石油横浜製油所 保土ケ谷町

 南北石油横浜製油所
保土ケ谷町字岩間
明治39年(1906)に設立。カリフォルニアのサンタマリヤ油田と新潟新津を原油供給地として平沼に貯油所、保土ケ谷に製油所を設けたが、供給先のカリフォルニアの会社がスタンダード石油に買収され 輸入が困難に。明治41年(1908)宝田石油に吸収合併された。
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明治38年     南北石油は大倉組の北海道石油組合と浅野総一郎の台湾石油組合および林忠正の青森県下の鉱区を合併吸収して設立された企業である(横浜市史)
明治39年5月7日 南北石油設立
明治39年8月   東西石油設立(浅野総一郎、大倉喜八郎)外国原油の輸入精製を目的とする東西石油を設立、カリフォルニアで採油しているグラシオサ石油会社ほか2社と原油供給の契約を結び、保土ケ谷に精製工場を設ける計画であった。設立一ヶ月後、同じ資本系統の南北石油会社に合併(横浜市史)
明治39年9月   東西石油会社は南北石油会社に合併(横浜市史)
明治39年12月  東西石油会社解散、あらたに資本金1,500,000円で南北石油会社をおこした。この会社はアメリカから原料を輸入、石油を精製した。工場は平沼・程ヶ谷の間にあつたが、河川に流出する石油が海魚・海草の発生をさまたげるため付近住民が工場移転運動をおこした(横浜歴史年表)
明治41年5月   保土ケ谷精製工場、平沼貯油所竣工(カリフォルニアの3社がスタンダード石油に買収され供給が困難に)(横浜市史)
明治41年9月   南北石油は宝田石油に合併(横浜市史)



横浜市療養院 保土ヶ谷町

神奈川県社会事業要覧
横浜市療養院
結核療養所
保土ヶ谷町岩間1771番地
大正9年9月28日開院
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富岡海岸 金沢

富岡海岸
富岡八幡宮 宮の前海岸
明治初期より居留地民の海水浴場として賑わった
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水産丸進水式

久保田勘吉
明治42年7月29日、久保田造船での大日本水産会遠洋模範船水産丸の進水式
久保田造船(青木町3562番地)は久保田万吉が明治22年に創業した
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米国篤志看護婦マッギー婦人来日

米国の篤志看護婦マッギー婦人来日
明治37年(1904)4月22日午前8時、日露戦争の負傷者救護のためにマッギーほか8名の看護婦らを乗せたショウマット号が入港。桟橋両岸は県立高等女学校、横浜女学校、フェリス女学校、山手共立女学校など各学校の女生徒や篤志看護婦、横浜奨兵議会婦人会、愛国婦人会、海岸教会員、各町の団体で埋め尽くされた。22日はグランドホテルに宿泊、23日は午前9時10分発の汽車で東京へ向かい、その後は広島などの病院で救護活動にあたった。
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朝田回漕店 元浜町

朝田回漕店
海陸送
元浜町1丁目1番地
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朝田又七 元浜町1丁目1番地「前貴族院議員にして横濱實業界の泰斗たる君は橫濱市會議長橫濱商業會議所議員神奈川縣防疫顧問破產管財人橫濱衛生會々頭日本赤十字社神奈川縣支部商議員日本海員液濟會評議員帝國海事協會橫濱市地方委員橫濱船渠株式會社取締役會長橫濱鐵道株式會社社長明治火災保險株式會社取締役明治生命保險株式會社取締役株式會社第二銀行監查 役機械製氷株式會社相談役株式會社橫濱實業銀行相談役株式會社橫濱實業貯蓄銀行相談役日本
下製造株式會社取締役橫濱倉庫株式會社相談役等の現職に務め過古の公共事業に盡瘁し貢獻するものに至っては殆んど枚挙するにあらず市政縣治に對し或は他地方の災害に對し或は土木教育慈善の上にし或は軍國の際に應じ金品を義捐し金銀木杯等を受領せること又列記の煩に耐へず宜なり君は實業界裡にありて一方の覇を稱するに足るのあるを君は愛知縣渥美郡豊橋町に天保九年十 二月二十八日を以て生る稍々長じて遠大なる志望と非凡なる才識とを抱懐し以て時機の来るを俟つ一度風雲に逢はば宛も龍の如く騰り虎の如く嘯かんとす時は来れり交久元年を以て剏めて横濱に赴き將來水運力の利用拡張せらるべきを察し遂に囘漕業を創む謀計誤たず君が天賦の不撓不屈の精力を活動せしめ霜晨雪夜拮据麗黽勉甞て一日も斯業を怠らず其報果は忽ち四方顧客の大なる信用を博し業務の隆盛を来たし爾来各種の事業を經營し遂に雲龍變絶大の成功を収め得て一世の瞻仰する所となれるは曠世の偉才を備ふるにあらざれば焉んぞ能く此の如くなるを得んや尚營業店は元濱町一 丁目出張店は海岸通四丁目別邸は住吉町六丁目にあり因に云ふ君は勘解由甚四郎氏の次男にして文久二年朝田家を相續せり」京浜実業家名鑑

「眞黒になって波止場人足をやったのは、店主朝田又七氏が横浜に来て間も無い時の事で、それからはトントン拍子、曾ては縣會議員たり現今は市會議長、商業會議所議員、横浜船渠會社長たる要職にある。どんな事をしてゐる人でも見さげるものでは無い、とは平素よく人に語る處である。三洲豊橋の産で相場に千圓程の損失をしたのが動機で横浜へ来たのであるが偖其當時金が落ちてゐるやうに聞いた開港場も来て見ると餘程な相違、詮方無く人足となって波止場稼ぎをなし竹の皮飯を二日食ったのである。特に駿州屋の先代松下定七氏に見抜かれて店員に採用され、後定七氏の斡旋で朝田家の入夫となった。時ある哉西南戦争、陸海軍御用の回漕を引受けて非常な巨利を博した。日々に計算が出来るやうでは儲けた處で知れたものだとは、氏が後に云った言葉で、其時は晝夜の別なく忙殺され、利益を見てゐるのやら損失をしてゐるのやら解らなかった位だといふ。先に瓦斯局長であった折、各戸に於ける瓦斯設備に就いて支配人に諮す處があったが、精細なる點に迄緻密に留意されるのには驚くばかりであったさうだ。又一面には人材登庸に意を継ぐから店には敏腕家揃ひであって、機敏に業務を取扱ってゐる。」実業之横浜

エンプレスオブアジア

エンプレス・オブ・エイジア
エンプレス・オブ・アジア
カナディアンパシフィックライン
横浜の船舶
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西国屋酒醤油商店 寿町

西国屋商店 松尾増太郎
酒醤油販売小売
寿町1丁目30番地
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