研究 桜道トンネル

桜道トンネルの写真を時代順に並べてみる

桜道トンネルを通る本牧線は明治44年12月26日に開通した
見物人が多いところから開通日前後と言われている

36型83号車両、36型は大正2年の製造なので撮影は大正2年以降

上の写真と同日の撮影
右の電柱脇に子ども、右手前の敷地には洗濯物が掛かる

右の電柱に実業講習録?のポスターが貼られている

ポスターは同様だが、季節は冬か

上の写真と同日か

右手前の敷地の柵が新しく整備され、建物が建っている

桜道の崖に柵が設置された

トンネル左の坂が階段に

左上の建物が取り壊されている
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

結田吉野鮨店 野毛町

吉野鮨 結田宇三郎
飲食鮨
野毛町2丁目42番地
旗には「茨城水戸味噌一手販売」の文字が見える
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


白鹿丸進水式

白鹿丸進水式
大正6年(1917)7月17日
鶴見浅野造船所の建造第1船、辰馬汽船の発注
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

横浜電気鉄道 1号車両

横浜電気鉄道 1号車輌
不鮮明だがヘッドライトの上に「1」と書かれている、これは車輌番号で側面にも同じ番号があるはずだがさらに不鮮明で確認ができない。そこで、当時の車輌に詳しい「横浜市電(上)戦災までの歴史とその車輌」を捲ってみる、そこには1号車から4号車までは側窓が10枚、5号車以降は9枚とあり、この写真の側窓を数えると10枚あるので1号車で間違いないだろう。
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

蔦座 吉田町

蔦座
横浜の劇場
吉田町1丁目10番地
明治9年(1876)増田座が開場した。明治13年(1880)に焼失するも再建し蔦座と改称、明治20年(1887)煉瓦造で新築開場した。明治32年(1899)関外大火により焼失し廃座。この写真は明治29年(1896)4月の撮影
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑

里見松泉堂薬舗 賑町

里見松泉堂
薬舗
賑町1丁目2番地(2948)
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


松泉堂藥舖 里見亭太郎 賑町1丁目2「米醫ヘボン先生は三尺の兒童も其名を知る、その處方によりて製劑せられし目藥と、家傳の解熱藥を以て有名なる里見亭太郎君は、賑町に宏壯なる店舗を有し、賣藥小賣の重鎮を以て目せらる、君平生公義の心に深かく、三十七八年戰役の際の如きは、町内有志會委員長に推され、風雨寒暑の別なく後援事業に奔走されしは、衆人の感動措かざる處なりしなり、現時孟樂會幹事として同業界の爲めに盡瘁 さる、」横濱成功名誉鑑


一ノ瀬回漕店 常盤町

一ノ瀬回漕店
運送
常盤町2丁目15番地

一ノ瀬回漕店についてまとめ
      明治41年7月21日 商号登記 村田文太郎
      明治42年7月31日 商号廃止   
      明治42年8月 4日 商号登記 伊庭敬一
      明治43年5月25日 商号廃止  
      明治43年5月26日 商号登記 高瀬為吉
      明治45年1月22日 会社設立 高瀬為吉 合名会社一ノ瀬回漕店設立

 横浜開港五十年祭が明治42年なので村田文太郎時代か
横浜 手彩色写真絵葉書 図鑑


イリス商会 山下町

イリス商会
ドイツ系商社
山下町54番地
ドイツ出身のルイス・クニフラーとヘルマン・ギルデマイスターが1859年(安政5年)L.クニフラー商会を長崎で設立、1880年(明治13年)カール・イリスが経営権を継承しイリス商会と改称した。写真の建物はドイツ人ゲオルグ・デ・ラランデの設計で1907年(明治40年)竣工。有隣新書から「ギルデマイスターの手紙〜ドイツ商人と幕末の日本〜」が出版されている
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横浜開港五十年祭祝典 大名行列

横浜開港五十年祭祝典 大名行列の絵葉書
1909年(明治42年)7月1日、横浜開港五十年祝典が開催された。キャプションにある大名行列の詳細についてはまた別途調べることとして、撮影場所はどこであろうか。伊勢佐木町か馬車道か、道幅からいって馬車道だろう。はっきりは見えないが、行燈に馬車道商栄会、提灯に馬車の文字が書かれているようだ。


次に通り左手前の白い看板を見てみよう「上等縮シャツ金壱円均一」「襯衣製造販売 浅野商店 横浜市太田町四丁目六十四番地」とある。
その住所から、やはり馬車道通り沿い、本町通り側から吉田橋方面を望む光景で、振り返ると弁天通や横浜正金銀行が見えるはずである。この浅野商店、住所と店名が一致する資料は無かったが、大正4年の横浜商工案内に「野毛町1丁目13番地 襯衣製造 浅野十二」とあり、その浅野十二氏(住吉町2丁目23番地)が明治36年に登録した商標が看板のマークと一致することから太田町の浅野商店も浅野十二氏が関係していると推測した。
店舗の住所は以下のようになる
明治36年 住吉町2丁目23番地
明治42年 太田町4丁目64番地 
大正 4年 野毛町1丁目13番地


次は通り右側に見える旗「増岡商店」について記しておく、「増岡商店 洋食料品卸小売 増岡重教 太田町5丁目76番地」その住所から馬車道通りを挟んだ浅野商店の向かい、旗の位置に店舗があった。増岡商店は翁町にも存在したが、こちらの店主は小泉芳五郎氏で太田町の増岡商店に勤務後、独立開業したようだ。継承など関連性は不明
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フランス領事官邸 山手町

フランス領事官邸
山手町186番地
サルダの設計で明治29年(1896)竣工
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水戸屋足袋店 伊勢佐木町

水戸屋
足袋商
伊勢佐木町2丁目19番地
明治32年(1899)雲井町大火前の伊勢佐木町、水戸屋足袋店か
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新松楼旅館 宮崎町

和英横浜案内
新松樓
旅舘
 宮崎町54番地
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金子貞次「紅葉坂の半腹、春は櫻花に聳え、秋は楓を凌ぐ、巍然たる一高樓あり、旅館及び料理店を兼ね、新松樓と稱し、土地の草分けとして知らる、初代金子伊勢太郎君は越後の人なりしが、明治四五年の頃伊勢山に太神宮の遷座さるる時、開け行く未來を察し、現下の所に一樓を開き旅館を營みたり、明治十三年の頃よりは兼ねるに料理を以てし、盛に仕出しを試み、華客を多く官吏の内に得て盛名を馳せつつありたり、二代目虎吉君三代目喜三郎君を経て、現主貞次君昨年嚴父の後を継承し四代目として立たる、君は明治廿二年本市に生れ、長じて横濱商業學校に入り、轉じて慶應義塾商工部に遊びたりしが、爾學校生活を廃して家業に勉勵さる、性沈思寡言頭脳明晰の人也、」横浜成功名誉鑑


今村提灯問屋 尾上町

今村岩五郎
提灯問屋
尾上町5丁目81番地
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野沢屋絹商店 弁天通

野澤屋絹店
生糸絹綿織物及加工品
弁天通2丁目29番地 30番地
(240)
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「辨天通に於て絢爛目を奪ふ店舖の一は豪商茂木保平君の絹商店なり、觀光外人等の上陸するや、肩摩轂擊の雜沓を極め、競ふて此の店舗を訪はざるを耻とするが如きの觀を呈す、刺繡入夜會服琥珀刺繡の手巾及び日本衣服支那服より、靴下寢衣膚衣提物紙入屏風ビヂャマ等に至るまで、何れも外人の嗜好に投じ且非常の廉價を以て買収し得らる、便利あるに由る、又同商店の絹反物及び木綿縮は是又久しく世界の市場に馨價を保ち、日本野澤屋の名歐米大陸の都市に於て知らざるものなしとは又盛ならずや、同商店は初め呉服店内に設けられしが、業務の發展に連れ特別の一部として現在の店舗を設くるに至りしなり、」横浜成功名誉鑑

野澤屋 茂木保平「呉服類の外洋服を販賣して愛顧者日に増加せり物品の仕入に吟味を加へ頗る實着と廉價を以て商略となし斯界に雄名を轟かせり」京浜名家総覧職業



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第一東京ビアホール 伊勢佐木町

第一東京ビーヤホール
ビアホール
伊勢佐木町1丁目2番地
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