現代之横濱 |
田中茂商店
銅鉄諸器械直輸出入商
境町1丁目11番地
明治の横浜手彩色写真絵葉書
横濱商界の異材 田中茂「我横濱實業家中超然脱俗の感ある田中茂君は下総佐倉の舊藩士にして、幼にして鴻儒吉野金陵、鹽谷宕陰等の門に學び、後中村敬字先生を師とし造詣する處尠からず、明治初年横濱修文館の敎員となり、又若松に行きて敎鞭を取る、粟津高明氏につき英語を學び、日本電信取扱入として我國最古の電線創設者なり、學歷技能旣に斯の如し、志牧民經世にありしが、一朝大悟すると共に心機玆に一轉して身を商界に投ず、時に明治七八年の頃なりき、銅鐵機械直輸入を營み、頓に家産を興して紳商の列に入る、橫須賀商業銀行日本殖民株式會社東京石川島造船所等の重役を兼ね、市會議員、區會議員、商業會議所議員として公共のことに盡力さるること多し、天性峻哨豪宕所謂人の意表に出づ、蓋しその學殖の潤富なる是が因たらずんばあらず、出生は嘉永五年七月に在り、」横浜成功名誉鑑
「君資性峻哨奇抜學東西に通ず實に横濱市に於ける一紳商たり明治二十年市會議員に擧げらるゝや同二十五年の交平沼タンク貯藏場設置の議あり議合はずして即ち辞職す明治二十三年本町十二ヶ町區會議員となり副議長に擧げらるるもの一期間横濱商業會議所議員としては創立以来絶へず其席を有ち且常務委員たること二回なりき其立志譚は波瀾あり曲折あり深山あり幽谷ありて正に一幅の畫圖の如く後生を稗益するもの蓋し尠からざるべし君は舊佐倉藩にして父を田中忠徳と云へり君十歳の時昇平黌に入り鹽谷宕陰中村敬宇芳野金陵等の薫陶を受け十五歳の時同黌助教授に採用せられ翌年明治維新に際し初めて横濱に来り修交館の漢學教員となり傍ら英語を修め續て日本電信取扱人となり京濱間電信の創設者なりき後粟津高明に就て英學を修め且電信局に出仕し居れり其の後英學教師となりて若松へ趣き幾もなく開成學校に入りしも學資乏しき爲め退學し甘一歳の時再び横濱に来りしも懐中無一物爲めに種々苦辛を嘗め後外國人に事へ傍ら英學を修め遂に商賣となるに至れり君の志政治家にありしも勉學過度に失し健康を害してより到底政治家たるに不適當の弱體とはなり了れり故に茲に名譽の希望を捨て一意産を興すの觀念を起せり是れ當時君が心機一轉の所なりき時に明治七八年の頃なりしかば世人商人を賤しむ事甚しく爲に君も友人間より非難の聲を受けたり加之君の性質頗ぶる癇癖にして且議論を好み商業家としては相容れざる質なりしを以て友人間よりは通譯若くは官吏たれと諌められたるも君亦鐡心之が為に動かされず断然人の助力を藉らず獨立獨行以て實業家の模範を垂れんと覺悟し以来幾多の辛酸を経以て今日の成功を致せり」京浜実業家名鑑
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