中野屋洋服店
洋服店
弁天通4丁目80番地(344)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
「店主は横浜商業学校第一期の卒業生で、明治十八年頃から翁町で出来合の洋服を売っていたのであるが、日清戦争の時に支那人の洋服商が帰国したのに乗じて居留地又は外国船の注文を取って裁縫を始めた。それが動機で商運が次第に発展し二十八年に現在の處へ移転して益々業務の擴張を計った。一般の裁縫の外に異彩を放っているのは婦人服子供服で、令弟岩崎貫三氏が多年海外に於て家庭を為していた経験に基き、容姿に應じて色の配合縞柄の調和をとるのには妙を得ている。殊に嬰児用として發賣するベビーボックスは従来の弊を除いた理想的のもので、下肢の運動を自由ならしめ小児成育上に効果のあるものであって本店独特の製品である。昨春から東京鍛冶町に出張所を設けて顧客の便を計っている。」実業之横浜
洋服裁縫並毛織物商 中野英一郎「辨天通りの中野屋洋服店主中野英一郎君は東京の人幸澄氏の長息なり、夙に橫濱商業學校を出で明治十八年洋服業を開き、廿二年に毛織物輸入業をなし雜貨輸出を開始す、卅八年商業視察の爲め濠洲南阿南北米國歐洲等に渡航し、歸朝後は專ら歐米の長所を擇びて洋服裁縫の術を改革したりしに忽ち紳士間の高評を博し陸續其注文を寄せ來るの繁榮にて、苟も流行界に馳驅するの人にして中野屋號の商標なきは遜色あるの盛况を來せり、啻に流行にのみ止まらず裁斷正確に縫合堅牢、永久に其型躰を頹さゞるは同店の最も得意とする所にして、他店の决して摸倣し能はざる所なりといふ、」横濱成功名誉鑑
中野洋服店 中野英一郎「ミシン機械數臺を据ひ幾多の職工亦孜々業務を勵む各所よりの注文實に矢の如し當主腕利の評判高く且裁縫緻密なりといふ」京浜名家総覧職業
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