藤本商店
蝋燭製造販売元
太田町2丁目30番地(1139)
明治の横浜手彩色写真絵葉書
藤本商店 上原米太郎「時勢の潮流に鑑み邦内にて流行せる品種を歐米各國より引取り巨商の高評ありて常に繁劇を加へ顧客の觀迎を承けつゝあり」京浜名家総覧職業
「明治三十八年の創業で主人は上原米太郎氏である。其當時は欧米雑貨輸入洋蠟等の販賣をしてゐたのであるが、五年以前から印度蘭貢ヘンリーフレミング商會より塔印蠟燭の原料一手販賣を特約しそれと同時に製造販賣に従事した。従来洋蠟は穴が無いので日本の家庭用には不便なことが尠からずあり且又價格の不廉である處から、必要にかられても需用者は或一部に限られてゐた。氏は是を遺憾とし底下に小穴をつけ價格を低廉にした。原料は地の下層より湧き出る極めて清浄なる石蠟油より製出し百三十六度の堅蠟を以て造るので、賣出しの最初は勁敵として同業者間に非常な反對者もあったが、氏の自信は他日の成功を期して大に努力した結果、其眞價を認められて内外に好評を博し内地各所の販路に亜ぐに海外に輸出するの盛運となった。製造所は神奈川浅間町六十九番地、九十七番地と高島町七丁目の三カ所にあって、塔印石蠟を製造して居る有様は驚く可き程である今回塔印發賣五週年紀念の爲本月一日より景品券附の發賣を挙行なし非常なる賣行なる由。」実業之横浜
塔印蠟燭製造發賣元 上原米太郎「上原米太郎君は明治元年滋賀縣の生れで、境町の近榮洋物店主故飯島榮助氏と同郷の因みから、約三年間同店に於て實務を研究され、大に着眼する所があって、明治廿八年獨立して西洋蠟燭の輸入販賣を開始された、全躰舶來品は品質良好なるも、本邦燭器に 用するには不便であるので、君は之を改良して穴着完全の製品を販賣せんとて種々苦心された結果、印度蘭貢産の洋蠟が品質佳良價又廉なるを實驗されたので其原料を本國と一手特約して明治四十年以來自から製造販賣さるゝととなった、之が即ち有名なる塔印洋蠟である、君が製造を創むるの當時は同業者間に兎角の批難もあったが、君は自から所信を確守して他日の成功を期し、一意專心其事業を繼續された、果せる哉昨年以來全國有力なる販賣店此二種の蠟燭は品質、價格、便益の上に於て優に他品を壓し、他日蠟燭社會の明星たるべしとの賞讚を博して、發賣日淺きに拘はらず國內は勿論海外にも輸出の途を開くに至ったので、現時は市內及名古屋に併せて四ヶ所の工塲を設け、各地に特約店を置き、盛に製造販賣されつつあるのである、此外君は印度蘭貢產アポロー印堅蠟の專賣、洋蠟原料ステヤリン及印度パラピン蠟の卸小賣を爲し、双洗濯用石鹼の輸入販賣をされてあるが、今や步を進めて此石鹸の製造に就て苦心經營中であるとのことだ、君性勤直酒煙草を嗜まず、一意專心事業を友とし、輸入品を防遏して國益を圖るを念とせらる、アゝ君の名譽は正に塔印のそれの如く高く天を摩するの慨がある現に西洋小間物引取商組合の委員として同業間に推重されて居る、」横濱成功名誉鑑
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